SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2006年10月 4日

#49 菅藤 心 『いい流れを加速し悪い流れを断ち切る』

◆最初にきたボールをキャッチしてトライ

菅藤 心_画像1

—— 長崎生まれの選手、サンゴリアスに多いですね

ラグビーのメッカという訳ではないけれど、もともと九州はこっちに比べてラグビースクールが盛んなところです。理由は分からないけれど、ラグビースクールは福岡にも長崎にもあって、小っちゃい時からラグビーをやる環境があります。九州のレベルがそれで上がってきたということがあると思います。

—— 菅藤選手も長崎ラグビースクールから?

はい、小学校4年生のときにスクールに入りました。僕は男ばかり4人兄弟の末っ子なんですが、次男、三男が小学校1、2年の時にラグビーを始めて、その頃まだ僕は幼稚園でした。長男はいろんなスポーツをやり、勉強もしていました。次男、三男の2人の兄貴がラグビーを始めたのは、お父さんの知り合いがラグビースクールの先生だったからなんです。お父さんには子供たちにスポーツさせたいという気持ちがあったのだと思います。

僕は週に1回、日曜日のラグビースクールの練習に、親に連れられてよく兄に着いて行きました。三男と僕が2つ違いなので、三男が小3の時に僕は小1で、その頃は「ラグビーしろ」って話になると、イヤイヤしてだだをこねてました。あまりその頃のことは覚えていないんですが、とくに何かをやりたいとかは、なかったと思います。

僕は小学校低学年の時にはクラシックギターを習っていました。お母さんが音楽をやっていて、ピアノやギターが好きだったんです。今はもうまったく弾けません。僕自身はあまり好きではなかったけど、小学校3、4年生までやっていたと思います。

それで小4に上がった時に、年度始めのラグビースクールの入学式があって、兄貴が「行くぞーっ」って言って、僕は着いて行きたくなかったので、泣きながら連れて行 かれたんです。覚えているのはスクールの校歌があって、兄貴の影響でぜんぶ覚えていて、その入学式でちゃんと歌っていました(笑)。自然と歌っていたし、今でもその校歌は歌えます。

菅藤 心_画像2

—— スクールは入ってみてどうだったんでしょう?

3年間練習を見に行っていて先生のことは既に知っていました。入る前から「入れ入れ」と言われていて入る気になったんですが、ラグビーにハマったきっかけは、最初の試合、そうですね、入って1、2週目ぐらいの福岡での試合でした。福岡には1歳上に耕太郎(田原)とかいるんですが、長崎と福岡は交流があって、遠征して1泊2日のホームステイをしながらの試合がありました。

行きのバスの中で指導者の方に呼ばれて、横に座ったら「明日試合に出すから」と言われて、何も知らないので「何やればいいんですか?」と聞いたら、指導者から「ボールが来たらボールを持って真っ直ぐ走りなさい」と言われました。

試合では最初キックオフ・ディフェンスだったんですが、キックオフでボールが僕のところに飛んで来て、そのボールをキャッチして真っ直ぐ走ったら、トライしていたんです。試合開始1分ないぐらいでした。

小学生のグラウンドは小さくて普通の1/4ぐらいの大きさで、普通のグラウンドのタッチラインからタッチラインまでを使ってやってたんですが、トライした時にたまたま2歳上の兄貴の友達がタッチライン沿いを通りかかって、僕が「トライ!」って大きな声で言ったら、「心、トライしたよ!」って言ってくれて、それが嬉しくて泣きそうになりました。

感動したんです。それはトライできたことに対しての喜びと、それをたまたま目の前に知ってる人がいて祝福してくれたことに対してでした。恥ずかしさもあったけど、嬉しさの方が大きかったんです。

菅藤 心_画像3

◆それでよかっさぁ

—— 中学ではそのままスクールに?

小学校では長崎ラグビースクールでフォワードをやっていて、中学へ上がる時はそのままスクールを続けようと考えていたんですが、中学(岩屋中学)にもラグビー部があって、親からは「どっちかにしなさい」と言われました。スクールは週に2回しかないんですが、確かに試合が重なったりする場合があるので両方は無理で、ラグビー部に入りました。

1年生でラグビー部に入って、城先生(和洋)という方にお会いして、この方が過去に2つの中学のラグビー部を底辺から強くした実績を持っていて、有名な方だったんです。その方に教わるようになって、スタンドオフをやるようになりました。

—— スタンドオフになってどうでしたか?

覚えていないんです。中学1、2年の記憶があまりなくて、基本的なプレーを重要視するラグビーだったことは覚えています。軽いプレーをしたり適当なパスをしたりするのはダメで、そこは厳しかったですよ。僕は小学校からやっていたので、中学から入ってきた部員に対して「心、お前やってみろ」と言われる見本的な感じでやる役目でした。

それをやった時に、少しでも違うプレー、例えばキャッチングの時に脇を開けてキャッチしたりすると、「何で脇が開いてるんだ!」って見本になる筈の僕が怒られました。そうやって怒る体育の先生でしたので、皆から恐れられていました。ビンタ張られたことも何度もあります。

ですからどちらかというと、ノビノビというよりは少し怖いなと思いながらやってましたが、いいプレーに対しては誉めてくれました。悪いプレーに対してはメチャクチャ言われますが、いいプレーに対しては「それでよかっさぁ」と長崎弁で誉めてくれました。

菅藤 心_画像4

その城先生が、僕が3年の時に別の中学に移ってしまって、その中学がすごく強くなったんです。九州大会の予選の長崎県大会の決勝でそこに当たりました。いい勝負をしたんですが結局負けて、九州大会には2位ブロックで出場しました。その学校とは決勝でいつも当たって、いいライバル関係でした。2位ブロックで出た九州大会では優勝しました。

スタンドオフは面白い、常にそういう感覚は持っています。最後のパスを通した時、トライするよりアシストすることが僕にとっては面白いですし、ポジション的にもそうなるんです。チャンスを自分で作って、最後にトライしてもらうということです。

—— ラグビー以外の選択肢はなかったんですか?

選択肢がある、ないでなく、子供の頃からラグビーにしばられていた感じです。週に1回、公園までバスで行って、そこからラグビースクールへ行くバスが出るんですが、兄貴2人と僕の3人で、そのバスにいかに遅れるか?をいつも考えてました(笑)。日曜日の朝は見たいテレビ番組もありましたし。

◆トップリーグで3人の兄弟が戦う

—— お兄さんたちはその後もラグビーを?

トップリーグのサニックスでプロになっているのが、菅藤友(ゆう)、三男です。次男の圭(けい)は、今年トップリーグに昇格したコカコーラ・ウエストジャパンにいます。次男は29歳です。三男がいるサニックスとは去年、対戦しました。センターをやっていますが、社会人になってから、フォワードからバックスに変わりました。

三男は大きいんですが器用です。僕と顔が似ていますし、髪型も同じです。試合での接触はとくになかったし、どっちが活躍したとかもとくになかったんですが、僕は(怪我明けの)復帰戦でしたし気合は入ってました。熊本での試合だったので両親も見に来ていました。サニックスが九州でやる試合は、頻繁に見に行っているみたいですね。

日本で最高のトップリーグで3人の兄弟が戦っているのは、他にいないと思います。長男は元(げん)と言うんですが、お父さんは重信(しげのぶ)ですから、息子たちの名前とは何の関係もなく、語呂が良かったんだと思います。菅藤は字画が多くて重いので、簡単な名前にしたかったらしいですよ。女の子が欲しくて、僕はたぶん、ハズレです(笑)。またか、という感じで、そこから次までいかなかったようです(笑)。僕は下が欲しかったですけれど。

菅藤 心_画像5

—— 高校の話を聞かせてください

高校は長崎南山高校です。僕が入った時に、尾崎さん(章)が3年生でした。史上最強チームと言われていて、春の県大会で優勝し、花園のチャンスの年でした。入学して夏前の大会で試合に出させてもらって、その試合に勝ちました。高校はいちばん上の兄だけ違いましたが、三男は尾崎さんと一緒の学年でした。

1年の時は新人戦にも勝って、高校総体にも大差で優勝して、花園は間違いないだろうと言われていたのに、予選で見事に負けました。ノートライでした。その頃の長崎県のラグビーは、いつもペナルティゴールの戦いみたいな決勝戦になって、10点入るか入らないかという試合が続いていたんです。僕らの時も9-3でした。

菅藤 心_画像6

高2になって、左足首の腓骨(ひこつ)を粉砕骨折したんです。2年の6月の試合で、最初の密集の中で上に乗られて、足痛いなぁってそのまま続けて、1~2分後ぐらいにタッチキックを蹴ろうとして踏ん張ったら、ゴリゴリゴリって音がして、立てなくなったと思ったらヒビが入っていました。

手術はしなかったけど、入院しました。レントゲンを撮ったら骨が粉々になっていて、いちばん初めての大きな怪我でした。この骨折をきっかけにして、2~3か月後に復帰した後またすぐヒビが入って、それを4回繰り返しました。1年間ずっと足を引き摺っていて、3年でキャプテンになったんですが、すぐに怪我をしちゃうんで、大事な試合しか出ないようにと言われていました。

その頃は体を大きくすることに努めて、ウエイトばかりやってました。だから怪我していた2~3年の頃は、自分にラグビーをやった感覚がなくて、チームも早い段階で負けてしまったし、悔いが残る2年間でしたね。

◆国立が満員で自然と笑っちゃう気持ちの良さ

—— そして大学は明治へ

早明戦を見ていて、ジャージの色が好きだったんです。ユニフォームの色、あぁ青だなーって。エンジよりもこっちの方がカッコいいなぁ、あのジャージを着たいなぁっていうのがあったのと、二番目の兄が明治に進学していたということもあって、明治を選びました。

高校では早くシーズンが終わっちゃって、全国的に無名な選手だったので、明治の一般試験を受けました。ラグビーの選手でも成績が低かったら落とされる、と聞いていたので、1日10時間ぐらい勉強しましたよ。予備校の自習室は勝手に使っていいことになっていたので、朝から図書館へ行って予備校に夜の10時までいました。

歴史がすごく苦手で、平均して20点ぐらいしか取れてなかったんですが、この頃がいちばん勉強しました。今はもう覚えていませんが試験を受ける時には最終的に歴史には自信を持てるぐらい勉強しました。教科書を丸覚えしましたから。

そうやって明治に入ると、兄貴は4年にいて、僕は1年から試合に出させてもらいました。兄貴がいたお陰で、上級生に対して変なハマリ方もしなかったし、どちらかというと良くしてもらいました。

1年の時の最初の早明戦に出させてもらって、楽しいなぁ、国立競技場だなぁという感じでした。結構人気があった頃なので、スタジアムは満員で、明治もそこそこ強くて、グラウンドに入った時の雰囲気が、あり得ない、というぐらい、いい感じでした。

グラウンドに出た瞬間のあのスタンドの人たち、この中でプレーできるんだと思ったら、自然と笑っちゃうような、緊張がどっかへ行っちゃうような、気持ちの良さでした。

菅藤 心_画像7

—— プレー自体はどうだったんですか?

僕自身は消極的なプレーだったけど、チームが勝てたのがいい思い出です。逆に悪い思い出は、大学4年の時のバイスキャプテン(副将)だったのに、膝にすぐ水がたまるような感じで膝に怪我をしていて、痛くて思うようなプレーができなかった時です。

同じ3年生だったいまセコムにいる鈴木(健)が、僕がいない時の穴埋めで、すごく活躍していました。彼が活躍していることに対して、僕はすごく動きが悪かったにもかかわらず、バイスキャプテンなので復帰したら試合に出させてくれる訳です。

それでいいパフォーマンスができなくて、その頃、悩みました。あいつを出した方がいいんじゃないか?でもそうは言ってられない立場にいて、自分が引っ張んなくちゃと.....。最後は大学選手権の1回戦で何十年振りに負けたんです。それがすごく悔しかったですね。

◆ラグビーをどういう位置に置くか

—— そしてサントリーへ

いちばん最初考えたのは、ラグビーをどういう位置に置くか、ということでした。メインに持ってくるのか、遊びとしてクラブチームに入るのかということです。その中間のチームはありませんから、普通に就職して中途半端にできるチームもないし、優勝したいという気持ちがあったし、高校や大学で優勝できなかったことに悔いがあって、勝ちたいと思ったんです。

サントリーはその当時強くて、伊藤宏明さんというスタンドオフが、僕とプレースタイルが違うけれども憧れだったんです。そういうプレーを勉強したいとも思って、サントリーに入ったんですが、伊藤さんと一緒にできたのは5月までで、伊藤さんは海外に行くって言って、サントリーを辞めちゃったんです。伊藤さんはその後クボタに行きましたが、間合いとかが上手いプレーヤーで、それでサントリーに決めたというのがあったので、1年目は勉強したいという気持ちで入ったんです。

小中高大と、最初の年から試合に出させてもらっていて、「実力なく運良く」という気持ちが自分の中にあって、天狗になっていたと思ったんです。それで1回勉強のつもりで、出られないことを見込んで学ぼうと思って入ってきたんです。そうしたら伊藤さんが辞めちゃって、えーっと思ったけど、いないけどやるしかないじゃないですか。

そしたら1年目の開幕戦に出させてもらって、チームもトップリーグになって勝ったのがいちばん大きくて、取りあえずホッとしました。その試合で1トライして、その時は自分の持てる力を発揮できたかなと思いました。

菅藤 心_画像8

—— その後はどうでしたか?

3シーズンやったんですが、結局2、3年目は怪我をしています。2年目の時に骨折して、手術しました。2年目の7月の夏合宿中に、足をはさまれてボキッという音がして、「折れた!出して、出して!」っていう感じでした。この時が人生でいちばん色々と考えた時でした。

仕事とラグビーの考え方についてです。ラグビーに重点を置きたい、それにはプロになりたいと思って、色々あってプロの選択肢がないということになって、すごく悩んで、2年目の2~3か月は、仕事もラグビーもどちらも手につかない状態でした。そういう状態でしたので2年目の春は調子が悪くて、結局プロの選択肢がないなら切り替えよう!と思った次の日に、怪我をしてしまいました。

前の年にチームでオーストラリアのワールドカップを見に行って、そのラグビーの雰囲気にすごく感動して、それまで味わったことがなかった感覚、その雰囲気に圧倒されて、日本代表になりたいと思うようになったんです。それまでは、別にいいよ代表チームは弱いし、なんて思ってるところもあったんですが、日本代表っていいな、と心から思えるようになったんです。

それがきっかけで、日本代表でやりたい、仕事をやらずにラグビーだけで目指して行きたい、仕事と両立してできるような簡単なことではない、と思って、チームと話し合いをしましたが、実績があるのか?と聞かれて、実績がないからやりたい、という堂々巡りでイライラしてもいたんですね。

この時は考えることに疲れちゃうぐらい悩んで、考えても答えが出ない時もあるし、同じところをグルグル頭の中だけで回っているという感覚でしたが、入院して「どうでもいいや」と、いい意味でそういう感覚になって、悩んでいる時間が無駄だ、と思うようになったんです。

菅藤 心_画像9

◆プロって何だ?

—— その時はもう結婚していたんですか?奥様は何と?

社会人1年目の3月に籍を入れてました。中学の同級生だったんですが、大学時代につ き合い始めて、つき合い始めてから彼女は東京に出てきました。それで結婚して、 彼女はどっちかと言ったら、口を出すタイプではないので、 僕の方から「夢を追わせてくれ」と言っていました。

1年目は最後の試合以外、ぜんぶ試合には出てましたが、レギュラーとして誰もが認 めるレギュラーなのかとチームに言われましたし、日本代表じゃなきゃということも 言われました。日本代表になるためにプロになりたい、とも言いましたが、最終的に は諦めざるを得ませんでした。この話をずっと続けていて、それに疲れちゃったこと もありましたし、営業の仕事も手につかない状況だったので、それがすごく嫌でした。

こんなに悩んで苦しんで、どっちも手につかなくて、それで何が残る?プロって何だ? 何が正しくて、何が間違ってるのかが分からなくなってしまいました。それで「考え るのやーめた」と思いました。考えて結論が出ることならいいけれど、そうでないこ とをそこから追っ掛け過ぎて考えないようにしたんです。それから性格が変わりまし た。すぐに切り替えが効くようになりました。僕の中で悩みすぎる時はいい結果が出 ない、と思うようになりました。

学生時代の4年生の時に怪我して試合に出れない時なんかも、溜め込むタイプでした が、その頃からいつも話し込んでいた奴に気持ちを伝えたら、「そんなに気にしなく ていいんじゃない?」と言われました。話すだけでもストレス解消になる時がある、 言ってもしょうがないではなくて、聞いてくれる人がいて話すとスーッとするという ことも知りました。

—— 性格が変わった後は?

3年目の去年は春から夏にかけて調子が良かったんですが、8月の夏合宿で怪我をしま した。肉離れだったんですが、それが再発したりして、11月まで引っ張ってしまいま した。トップリーグの最後とマイクロソフトカップにちょっと出たという感じでした。

今年も春からずっと出させてもらっていて、また怪我したんですが、今年の怪我の仕 方は、今までと比べるとタイミング的には不幸中の幸いでした。右足の肉離れでした が、ちょうど夏合宿で復帰できて、ちょっと怖さもありましたが、開幕戦の前週ぐら いからだいぶ調子も上がって来たので、楽しみなシーズンです。

春から清宮さんのもとで練習して試合をして、僕らが目指しているラグビーに向かっ て、今のところ負けていないので自信がつくのはいいことですが、練習でやってい ることがそのままぜんぶ出ているのかというと、去年とは違うけれどもまだそうじゃ ない、もっと球を動かせるのではないか、と思っています。

今はチーム状態がいいですし、これから更にすごく伸びていいチームになるんじゃな いか、まだできる、試合の度にこんなもんじゃないだろう、っていう感じで、いい意 味で先がまだ見えない、どこまでこのチームは伸びるんだろう?という要素が、今年 のチームには本当にあると思います。練習でやっていることを、まだ完全には出せて いないですしね。

◆とにかく試合に出ること

菅藤 心_画像10

—— そういう中で菅藤選手の今年の目標は?

まず優勝は絶対です。個人的な目標という部分では、自分がとにかく試合に出ること ですし、リザーブには悔しさがあります。試合にもし出る機会があれば、絶対に流れ を変えるプレーがしたいですね。いい流れだったらそれを加速し、悪い流れだったら 断ち切って、いい流れに持って行きたいと思っています。

後はとにかくチャレンジする場もアピールする場も、練習でもいくらでもあるので、 いつ怪我人が出るかもわからないし、常にそういうモチベーションを持っていたいし、 いつでも試合に出れるようにしていきたいと思っています。

—— そのために特別にやっていることは?

ウエイトは昔から、学生の時からたくさんやっています。身長が低くて体が小さいの で、ポジションとしてはコア、体幹を強化することが大切だと思っています。練習の 前後のどちらでもいいんですが、腹筋をやって、コア系のトレーニングをやるように 心掛けています。

—— お子さんは何歳になったんですか?

2歳、女の子です。もうしゃべりますが、何を言っているか分からないんです(笑)。 川沿いに住んでいるので、多摩川にはよく行きます。環境がいいので、子供にはそう いう雰囲気というか、自然に触れさせたいですね。

—— 人生という意味での将来構想は?

将来的には分からないんですけど、普通にいけばサントリーに残ると思います。何か ビジネスでもチャレンジするチャンスがあれば、やってみたいとも思いますし、それ ができる人は幸せだなぁと思います。サラリーマンでも将来何かやりたい人はいるで しょうが、その何かを見つけるのが難しいんでしょうね。人生は1回なので、何かを やり出してみたい気もしています。ラグビーは小中学生には教えたいですね。教える ことがメインにはならないでしょうけれど。ラグビーは好きですから。

(インタビュー&構成:針谷和昌)

一覧へ