2006年8月28日
#44 尾崎 章 『ラグビーはぜんぶ自分の責任だし、ビビったらぜんぶ僕の責任』
◆村上龍の言い回しが好き
—— プロフィールのニックネーム欄にロベルト・カルロスとありますが
みんながロベカルに似ている、と言ってつけたんです。それを意識して頭を坊主にしてます(笑)。
—— 趣味欄には読書とあります
読書は好き、というか普通です。「ラグビーマガジン」は必読です。「まど」という(サントリーの)会社の本もいつも読んでます。
—— 好きな作家は?
村上龍。「愛と幻想のファシズム」がいちばん好きです。主人公の友達がいるんですけど、メタメタになっていくかわいそうな話です。村上龍の言い回しが好きです。同じ長崎人で、佐世保西高の元ラグビー部だと思います。ウイングをやっていて、途中でたぶん辞めているんじゃないかなぁ。
—— 貴方がラグビーを始めたのは?
高1、16歳の時からです。小学校ではサッカー部、中学ではソフトテニス部でした。中学、高校と一緒の学校で南山中、南山高に行きました。南山中のソフトテニス部は厳しいところで、強かったんです。タコくん(岡元義洋 分析担当)も同郷でソフトテニス部だったので、良く知ってますよ。監督から「お前入れ」みたいな感じで言われて入りましたが、面白かった。
—— ソフトテニスの腕前は?
実力は、普通でした。
*タコこと 岡元義洋 分析担当のコメント
「僕は西大村中というところでソフトテニス部に入ってました。大会で南山中と当たって、僕は勝ちましたが部としては1-2で負けました。大きい奴がいて楽勝だと思ってたら、動きが早くて凄い選手が尾崎でした。年齢は一緒です。その後、風の便りにラグビーをやっているということは聞いていました。サンゴリアスで再会したわけです」
◆梃の原理でこうやったら倒れる
—— サッカー、ソフトテニスから何故ラグビーへ?
高校の市山先生というラグビー部の監督に出会ったんです。中学からずっと勉強も見てもらっていて、ソフトテニスが中学で終わったら、高校でラグビー部に入れと、声を掛けてもらいました。尊敬していた市山先生は物理の先生でラグビー部の監督でした。
—— じゃあ物理っぽい教え方をラグビー部でしていたとか?
はい。敵をオーバーする時、これが梃(てこ)の原理で、こうやったら倒れるとか、ああやったら倒れないとか、くだけながら言うんですが、あーそうか!とよく分かるんです。勉強の補習でも、ラグビー部員に分かるように物理の問題を作ってきてくれたりとか、噛み砕いて教えてくれたりしました。
—— 高校で初めてラグビーをやってみて、どうでしたか?
最初はぜんぜんダメだったんです。最初1年目はセンターでダメで、2年目の途中から今のポジションのフォワードになって、だんだんちょっとずつ良くなって来ました。同じ高校出身の心(菅藤)が1年の時の僕が3年で、平(浩二)とは大学で彼が1年、僕が5年でかぶってるんですが、例えば彼らのように子供の頃から長崎ラグビースクールでやって来て入ってきた奴らは、上手いんです。みんな上手くてついていけない状態でした。
そんな時にちょうど夏合宿からフォワードに変わって、フォワードの方がいいなぁ、とすぐに思いました。バックスは決められた通りに走らなきゃいけないし、タイミングとかもあるんですが、フォワードはもの凄くコンタクトプレーが多くて、しかもボールを持ったら「イケーッ!」というのが、明確で良かったと思うんです。
テニスも野球もサッカーも、物に気持ちを込めなきゃいけないと思うんです。それで100練習して、100ボールに伝わっていくのかなぁと思ってました。ラグビーはぜんぶ自分の責任だし、ビビったらぜんぶ僕の責任です。それがいいなぁと思いましたし、楽しいですね。
◆初めての大きな怪我
—— 大学で同志社に行ったのは?
いちばん最初に同志社から誘いが来たんです。同志社は京都ですが、長崎に比べてすごい都会だなと思いました。寮生活は、独特のものがあって、怖い先輩もいて、なかなか慣れませんでした。でも練習し始めたら、いい先輩に巡り合えて、夏合宿ぐらいから、普通に生活できるようになりました。1年留年しているので5年間の寮生活でした。
—— 大学ラグビーでいちばん印象に残っているのは?
4年目に怪我したことです。右足首の脛腓靱帯(けいひじんたい)損傷でした。試合中にやったんですが、相手に足の上に乗られて怪我しました。その出た試合自体が、怪我あけの試合だったんです。当時のキャプテンの大西将太郎(ヤマハ発動機ジュビロ)が、1つ下に力が強くて僕以上に遜色ないプレーができる選手もいたんですが、怪我あけにもかかわらず、無理矢理僕を起用してくれたんです。そこで怪我をしてしまい、手術しました。次の年のゴールデンウィークにやっと復帰したぐらいの、初めての大きな怪我でした。
この時、チーム的には勝って良かったんだけど、普通に使ったんだよと大西は言うかもしれないけど、どう考えてもあり得ない人選で、それだけに辛かったですね。この時一緒だった同期には、神戸(製鋼コベルコスティーラーズ)の林(慶鎬)もいます。
4年目で大西がキャプテンで、すごいプレーヤーもたくさんいて、このシーズンに照準を合わせていたし、僕も楽しみでしたので、この時は辛かったですね。復帰したら5年目になっていて、みんなもういなくなっていて、1番の奴とフランカーの奴だけ残っていて、フランカーはワールド(ファイティングブル)へ行った田中(正純)という奴でナンバーエイトをやっていたんですが、この残った3人で固まってました。
◆日本最強のスクラムを組む人たちがいた
—— そしてサントリーへ
サントリーには当時、長谷川(慎)、坂田(正彰)、中村(直人)という、日本最強のスクラムを組む人たちがいたんで、サントリーへ入りたかったんです。1、2年目はぜんぜんダメで、3、4年目もぜんぜんダメで、5年目になっちゃいました。だからまだ、ゲームの思い出というのはありません。
—— 今年の目標は?
サントリーに入って印象深いのはどれでしたか?これです、と言えるように頑張ります。監督がどうこうより、僕らがアライブできるかできないかですし、いつの年も監督は絶対ですから、僕らがそれにどう応えるかだと思います。今度の府中の試合(8/18プレシーズンマッチ東芝戦)のメンバーに入れるか入らないか、とりあえずそれがいちばんの目標です。調子は、いいです。
(インタビュー&構成 針谷和昌)