SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2006年8月10日

#39 元 申騎 『前面に出てぶち当たっていく』

◆元気のよさが僕のカラー

—— いつも元気あふれるプレーだなぁと思って見てます

基本的に元気のよさが僕のカラーで、流れを変えるようなプレーを意識してるわけではないんですが、激しさという部分を前面に出していこうと思っています。すごい負けず嫌いで、それにプラスして勝負に対する気性の激しさは、普通の人よりはあると思うので、たぶん見ている人はそれを感じるのではないでしょうか。僕自身、恐いというイメージを持たれていて、人に恐がられてるって思っています。

—— 恐いとは思いませんが

カッとなったりするので、確かにそのあたりの気持ちのコントロールは大切だと思うし、ある意味、自分の持っているものを前面に出して、前面にぶち当たっていくタイプの人間だと思います。

—— その気性は昔から?

ラグビーを始めてからですかね。高校1年生でラグビーを始めましたが、親父が厳しくて、それまでは昼には学校の部活でバスケットボールをやって、夜は柔道を教室へ行ってやっていました。バスケは自分でやりたくてやって、親父に柔道教室に通わされた感じです。柔道は高校受験をするまでやりました。

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高校(熊谷工業高校)でラグビー部に入ったときは、かなり貧弱な体でした。中学時代(荒川中学)のバスケの写真を見せたいくらいです。「ポッキー」です。体が細かったし気持ちも弱かったんです。それで父親がこのままじゃダメだと思ったんですね。小学校ではとくに本格的にやってたスポーツはありませんが、野球とかサッカーをやっていました。小学校、中学校の同級生といまスレ違ったら、相手は絶対気がつかないと思いますよ。

持って生まれたものもあったけど、出す場面がなかったんです。でも、あのときですね。バスケの試合でこぼれたボールをリバウンドで取るときに競ったんです。相手と思いっきりぶつかって、骨折させてしまったんです。部内マッチだったんですが、両親と相手の家へ謝りに行きました。それから高校の進路を考えたときに、ラグビーをやってみようかと思ったんです。

—— ラグビーをやってみてどうだったんですか?

合っていた。血が騒ぐ、気性が激しい性格なので、いつでも男と男の1対1の勝負をやった人でないと分らないでしょうが、これは民族の問題かもしれません。大和魂ですね。格闘技は大好きですし、たまにサントリーの部員のみんなに「デビューしたら?」って言われます。実際にやったら相手はプロですし、コテンパンにやられるでしょうけど。

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◆悩みながら集中するタイプ

—— 格闘技と言えば柔道、空手ほかいろいろありますが

昔から個人スポーツは好きじゃなかったんです。陸上とかも好きじゃないですし、チームでチームメイトとやる、みたいなのが好きだったんです。そして高校へ入ってラグビーをやってみたら、ハマりました。ラグビーをやり始めて、一生懸命に体づくりをしようとしましたが、最初に挙げたベンチプレスは、いまでも覚えてますが、23kgぐらいでした。初心者でそれまでウエイトもやったことがなかったんです。

ラグビーは格闘技だと思いますし、基本的な体力や筋力が必要とされます。そのころは体がヒョロかったので、ウエイトは夜遅くまでやっていました。卒業するまで続けて、そのころには100kgを軽く挙げられるようになりました。基本的に物事を習得するのにとても時間がかかるタイプなんです。

で、気がついたらできている、気がついたら吹っ飛ばせてる、気がついたらタックルができてる、そういう感じでした。自分の実力を把握できるタイプでなく、ネガティブな考え方をどんどんするというか、ダメだったら頑張ろう、を繰り返すタイプなんです。

やると決めたら基本的に簡単にできることには執着しないけど、例えば悔しかったり上手くいかないことに関しては、とても悩みながら集中するタイプです。いろいろなやり方を考えたり、ビデオを見ながら考えたり。幸運なことに、いままで上手くいかないときには誰かがいて、それで上手くいくということがいろいろあったんです。幸運な巡り会いをしてきました。自分を引き出してくれる指導者が多かったんです。それも集中できた一因です。

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在日だからって部分、28歳で悟りましたが、若いときは自分のことがよく分からなかったんです。28になったいまもたぶんあると思うんですが、在日のときにあった自分のガッツが、とても大きいんじゃないかと思うんです。僕の父親は中国人で母親は日本人ですが、父親は教育熱心でした。

僕にも儒教的な考え方があって、両親に対しては勉強にしろスポーツにしろやらせてもらって、恩返しをしなきゃいけないと思っています。僕もいまは日本人だけど、他の日本選手に負けられないという気持ちも、そこから来ている、僕の負けず嫌いはそこから来ていると思うんです。

◆人って忘れやすい

昔はいじめられました。例えば小学校のとき、名前が違うということで。あまり普段は気にしないんですが、高校ジャパンになったときに僕だけパスポートが違って、あ、俺、違うんだな、と思ったりとか.....。人ってとても忘れやすいですね。成人を迎えて、社会人の就職活動している最中の大学4年のときに、日本籍を取得しました。

悩んだあげく、日本籍にしたら日本人になっちゃうんです。いままでハングリー精神やガッツ、負けられないとやってきたのに、それをふっと忘れちゃうことがあるんですね、紙切れだけのことなのに。そのときに妹も国籍を変えました。父は考えたあげく、1年間中国籍のままでいてから変わりました。

それからずいぶん経って、忘れもしない土田さん(雅人/前々監督)、エディーさん(ジョーンズ/テクニカルアドバイザー)と僕の3人でいたときのことです。オーストラリア遠征のときでした。人ってそのときは「この人、何言ってんの?」とすごく頭にきたことが、1か月か2か月経ってから、結構心にしみることがあるんですね。土田さんがこう言ったんです。

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「お前は普通の日本人と同じようなプレーヤーじゃダメなんだ。お前はチャイニーズだろう。日本人以上にもっとちゃんとしたプレーをしなくちゃダメなんだ」と、エディーさんに話しているようで、僕に言っているような感じで言ったんです。それを聞いて、そんなの関係ない、とそのときは思いました。プレーはプレーだし、たまたまプレーが良いときもあれば悪いときもある、何言ってんだ?という気持ちです。

それがちょうど何のときでしょう?そう、在日朝鮮人のアン・ヨンハ選手(安英学/アルビレックス新潟/サッカー北朝鮮代表選手)が、堂々と誇りを持って、日本のマスコミだとかいろんな人に対して、相手の目をしっかりと見つめてしゃべっている姿を見て、僕は「魂を捨ててしまったな」とつくづく思ったんです。あのときはそれくらいの気持ちがあったのに、いつそれを捨ててしまったんだろう、って。

◆魂なくしてんな

高校選手権で花園に出場したときに、新聞の1面に「中国人ラガー」って出たんですよ。それが嫌で嫌で、結構バネにもなっていました。そうやって書かれて実家では母親がずいぶん涙してたし、色眼鏡で人を見るところが人間にはあって、僕はそうされたことをうまくパワーに変えてたんです。「お前、ちょっと違う」と土田さんにポロッと言われて、それに気づくのがずいぶん後になってしまったんです。

在日的な部分の魂がちょっとなくなっちゃった、たるんでんじゃないの?ということでしょう。土田監督ってすごいんですよ。結構直球なんですが、それによって、俺最近ちょっと魂、なくしてんなと気がついたんですから。大学生のころまでは意識していたんです。僕は在日で、父から仕送りしてもらっているし、学校にしっかり行かなくちゃいけないし、それで3年次までにしっかり単位を取っていました。

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4年で日本人になって、変わる変わらないというよりも、それまでの自分の下地がプレーに出ていたんだと思うんです。何だかんだと言っても、結局プレーの部分で「お前、ちょっと違う、普通の選手と一緒じゃダメだよ」ってことだったんですね。サントリーに入って2年目の、オーストラリア合宿でした。言われたときは何でよ、って怒ってたんですが、心に引っかかってたんです。それでアン選手のインタビューを見て気がつきました。

それからそれをずっと意識しています。普通の当たり前のプレーじゃダメだな、もっと激しく、気持ちじゃないけどそういう熱いものを出せるようなプレーを、心掛けるようになりました。大学でラグビーを極めたなと思い、卒業してから筑波大学の大学院へ行って勉強しようかなと思ってました。資料を取り寄せて、バスに乗って筑波大学まで行ったこともあります。

同時にいろんな人の話を聞いて、就職の声をかけてくれる人の話を聞いているうちに、大学院へ行くより、社会人ラグビーを体験することの方が、大きいんじゃないかと思うようになりました。ラグビーを極めたなと思ったのは、1対1で負ける気がしなかったからです。でも大学の中の経験値というところからレベルを上げてみてもいいかな、大学院はそれからでも遅くないや、と思ったんです。いろんな企業がありましたが、仕事もしてみたいという部分があって、仕事も任されるサントリーに入りました。

◆僕の引き出しからいいものを出してくれるエディーさん

—— 社会人ラグビーはどうでした?

しんどかったです。ラグビーも仕事も。極めたなんて言葉、どこから出たんだろう?というぐらいしんどかったですよ。土田さんとエディーさんにこてんぱんにやられました。土田さんからは「辞めろ」と言われたこともあります。いま思えば愛の鞭だったんでしょうけど。いろんなこと言われて泣きました。

—— 泣いた?

結構泣かされました。エディーさんと土田さんには結構泣かされました。いろいろ言われて、悔しくて涙が出てきちゃうんです。土田さんからキツい指摘を受けたときに、うまくエディーさんがフォローしてくれたりしてました。エディーさんは毎回オーストラリアへ帰るとき、手紙を置いていってくれるんです。何かしらのコメントが帰り際にあるんです。オーストラリアからはファックスをくれたりとかもします。

今回も僕が不甲斐なくて、清宮さんにとって余り良くなかったんでしょう。毎回入れ替わってましたが、Bチームに入ってのNTT東日本戦の試合が終わって、次にトヨタの試合があってリザーブだったんですが、後半5分ぐらいから出たんです。エディーさんは試合に出すから、と言っていて、でも僕が出たときはもう帰りの飛行機の関係でエディーさんは試合会場を後にしてたんですが、帰る前に僕の耳元で、「疲れてきたりフィットネスあるなしは関係ない。疲れてるときの出だしの一歩は、フィットネスやフィジカルじゃない。疲れたときこそメンタルだ。だからガンバレ」と言ってくれました。それがすごく響いたんです。

いまこうやってプレーして試合にいろいろ出て、レベルがこういう形で上がってきたのも、エディーさんのおかげだと思います。何か人って巡り合わせがあって、自分が上手くいかないときに、上手くアンテナを合わせてチョイスしてくれる、見い出してくれる人が、絶対にいると思うんです。それに頼るだけじゃダメなんですが、なぜか僕の引き出しからいいものを出してくれる人が、エディーさんですね。

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—— 今年の目標は?

レベルアップです。実際気がついたら28歳、すべてに最高の準備をしたいんですね。すべてのベクトルを自分に向けて、ほんとにここで28歳にしてもう一皮むけたいですね。

—— 将来構想は?

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教職免許を持っているので、働きながらもいいタイミングで、先生になるチャンスがあればやってみたいですね。サントリーでずっとやるのもいいかもしれません。常にどっちでも行けるチョイスをしておこうと思います。いまの仕事が楽しければ、そっちへ進むし、いい話があればいつでもチャレンジできる体制を とっておきたいと思います。

(インタビュー&構成 針谷和昌)

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