2006年7月25日
#32 池谷 陽輔 『頭を上げたときにトライしてたら感謝の気持ちでいっぱい』
◆野球がしんどかった
—— お父さんはプロ野球広島東洋カープのピッチャー池谷公二郎(※1)さんですね
子供のころ球場へ行って、かき氷や弁当など、もの食べてることしか、記憶にないんです。母と兄と妹との家族で、スタンドに行っていました。でも野球にあまり興味がなかったので、集中して野球を見てませんでした。僕が小学校1年生のころ、親父は現役を辞めましたから、親父のプレーは何となくしか覚えてないですね。僕はスタンドに座って、何か食べてました(笑)。
※1:池谷公二郎
1952年6月28日静岡県静岡市生まれ、野球解説者。
73年広島入団、76年最多勝、76,77年奪三振王、76年沢村賞。
通算325試合登板、103勝84敗10セーブ、85年現役引退。
—— そのお父さんとキャッチボールはよくしましたか?
親父が現役の頃はあまり記憶がありません。現役を引退してからですね。僕は小学校のとき町内会のソフトボール部に入っていて、中学(己斐中/こいちゅう)で野球部に入ったんですが、あまり野球は好きじゃなかったんです。親父とキャッチボールもしましたが、投げ方ひとつにしろ、バットの振り方にしろ、とにかくあーしろこーしろといろいろ言われて、野球が好きになれなかったんで、しんどかったです。
—— 野球ではどこのポジションをやってたんですか?
ファーストとかライトとかキャッチャーをやっていました。しゃがめたり、動かなくていいところです。バッティングも、当たれば飛ぶけど当たらない(笑)。野球はぜんぜんダメでした。兄も中学で野球部でしたが、レギュラーではなかったと思います。妹がいちばん運動神経が良くて、大学を卒業するまでテニスをやっていました。そこそこ強かったんです。母は高校で卓球部だったそうです。
—— ラグビーを始めたのは
小4からラグビーを始めました。そのときはソフトボール以外に、サッカーもやりたかったけど、同級生の友達と一緒にラグビーをやりたいという気持ちがありました。ラグビーは物珍しいというのもあって、広島ではスクールは少ないんですが、スクールに入ってラグビーを始めました。
◆トライのときの気持ち良さ
—— ラグビーは面白かった?
小学生のときからデカかったので、体力だけでトライできちゃったんです。ボールをもらうと、足も速くないけど体格差だけでいけちゃいました。それでトライしたときの気持ち良さを覚えちゃったんですね。
中1から3年までは野球三昧でラグビーをやる暇もなかったんですが、野球は夏で終わります。小学校で通っていたラグビースクールの中学バージョンがあって、小学校の仲間も中学でラグビーをやったりしていたので、野球が終わってからまたラグビーをやりたくなったんです。それで夏以降、ラグビースクールに戻ったって感じでした。野球部が終わって何もしないと、動くこともなくなっちゃいますしね。
—— 高校から本格的にラグビーをやったんですね
中3の夏から始めたラグビーでしたが、ラグビーで高校に誘ってくれたんです。スクールのOBに宗徳高校を卒業した方がいて、体がデカかったんで誘ってくれました。それで勉強しなくていいんなら行こうかなって思って、入学しました。
高校のラグビーでは県でベスト4までいきました。広島は、ラグビーのレベルは低かったんですが、練習は毎日あったし、それなりに厳しかったですよ。ポジションはこのときからずっとプロップですが、1年のときちょっとロックをやりました。
中学で一緒にやっていたメンバーの何人かは、一緒にラグビー部に入りました。男子校だったので、みんな仲が良かったんです。高校では、仲間ができた、と思います。中学のときのラグビースクールでは、いろんな中学のやつが集まって来てましたので、毎日会うことはなかったんですが、高校での部活は毎日会いますし、高校になって本当の仲間というか、一緒に苦しいことを乗り越えて、同じ目標に向かって頑張る仲間ができました。
いつも一緒にいますから、親より一緒にいる時間が長くて、クラスが違っても休憩時間に話したりしてました。練習は授業が終わる3時から始まって6時、7時ぐらいまででした。練習のあと学校の近くの行きつけの駄菓子屋に寄ったり、コンビニに寄ったり、それで家に帰ってからも晩ご飯食べてましたからね、あの頃はすごく食べてました。
◆ズルズルと引きずってトライ
—— 高校でもトライしましたか
中国大会の1回戦の相手が弱くて、僕がボールを持って走って、22mラインあたりから相手をズルズルと引きずっていって、トライしたことがありました。やたら疲れたトライでしたが、あっ、できちゃった、みたいなところがありました。足が速かった訳でもないので、デカきゃなんとかなる、パワーとサイズだけって感じでしたね。
—— そして法政大学へ
法政大学にはラグビーの推薦で入りました。僕が行ってた宗徳高校というのは仏教の学校だったので、龍谷大学と姉妹校なんです。ですから、例えばいまクボタにいる佐川(聡)さんなんかもそうですが、龍谷大学に行く人が多かったんです。僕が仲が良かった仲間も何人かが行くという話になっていましたし、専修大学にも先輩が2人いて、いろいろと迷いがありました。法政はだいぶ上の先輩しかいなくて、その先輩が言っていたのは上下関係が厳しいとのことで、どう考えても行きたくないなと思っていたんです。
でも親に話すと、親としては法政に行った方がいい、というんです。知り合いのOBも法政を薦めてくれたので、恐る恐る入りました(笑)。法政に関するデータがなかったんです。結果、行って良かったと思います。入ってみたら、厳しいことは厳しいけど、当たり前のことを当たり前にやっているだけで、みんな仲良かったですよ。
ただ広島県のラグビーのレベルとは次元が違いました。考えるレベルにしても、広島県はここ(*と言ってテーブルの手前に手を置く)から考えるんですが、法政ではここら辺(*と言って今度はテーブルの奥に手を置く)に土台があって、さらにここからどうするかその先を考えるんです。考えるレベルが違って、すごく刺激を受けましたし、自分のレベルが低いということがよくわかりました。ですから1年のときは、試合にかすりもしませんでした。
でもいいコーチに恵まれて頑張ろうと思いましたし、周りからもいい刺激を受けました。コーチは駒井さん(孝行)というフォワードコーチで、厳しかったけどこの方がずっと目をかけてくれて、練習をみてくれました。いろいろ教えていただいて、2年生から試合に出してもらえるようになりました。
前の年は名前も呼ばれなくて"戦力外通告"みたいな感じでしたが、次の年からは全国のトップレベルのリーグ戦・関東大学リーグ戦に出るようになって、いままで弱いところ出身で周りのレベルが高くて自信がなかったのが、ようやく自信を持てるようになりました。自分は何をやらなきゃいけないかが、見えてきたんです。
◆そんだけ組みゃーもう負けねー
—— それは何ですか?
先ずはセットプレーですね。経験や技などは、高いレベルでやってきた人たちにはかなわないんです。上手いなと思う部分がいっぱいあって、プロップの仕事はセットプレーやスクラムですが、1、2年の夏合宿で1日100本を毎日組むメニューをやって、相当キツイんですが、それをやって強くなれました。そんだけ組みゃーもう負けねーだろ、と自信がつくんです。
—— それはきっと血だらけ傷だらけなのでは?
首の後ろから血が出ますし、指もパックでボロボロになります。肩もそうですね。だからいろいろ貼ったりとか、ワセリン塗ったりしてやりました。
—— よく続きましたね
辞めようと思ったことは何回もあります。入って最初の頃はとくにありました。でも僕らの代も、上の代も下の代も、辞める人はいなかったんです。仲間がいたから続けられたんだと思います。同期は23~24人いました。
—— チームの成績は?
1年のときはリーグ戦で優勝しましたが、大学選手権は2回戦ぐらいで早稲田に負けました。2年のときはリーグ戦が5位で、大学選手権は1回戦で慶應に負けて、2年とも年内に終わっちゃいました。3年のとき初めて国立競技場にいきました。準決勝で前評判の高かった慶應に勝って、決勝までいきましたが関東学院にボロ負けしました。4年のときも国立の準決勝で関東学院に負けました。
◆初の国立に足がすくんだ
—— 初の国立はどうだったんですか?
最初、足がすくみました。国立はデカくてお客さんもたくさん入っているし、秩父宮もデカいイメージがありましたが、あそこまでではなかった。笛が鳴れば周りは関係なく試合しかないと集中できますが、アップが終わって気合を入れてグラウンドに入ったときに、ワァーッて思いました。自分のプレーは可もなく不可もなく、あぁこれ良かったなと思えるプレーは、正直数えるほどしかなかったです。
—— あぁこれ良かったなと思えるプレーはどんなプレーですか
例えばスクラムを押せたとき。ボールを持ってチャンスを作って、次のプレーでトライを決めてくれたとき。トライしたとき。そんなもんですかね。
—— 良いプレーを常にイメージしている?
自分で意識してやっています。チームに求められてることをいかにできるかを、ずっと考えてやっています。試合の後でもっとああしとけば良かったとか、こうしとけば良かったとか、常にどの試合でもそういう気持ちは持っています。次のときにそれができるようになってるかどうかは、できている部分と、できていない部分の両方あります。
ラグビーをやっていればそれはずっと出てくると思います。それがなくなったらストップしちゃいます。自分にそう言い聞かせています。難しいですよね、求められていることを完璧にやるのは。80分間ぜんぶできるっていうのは、とても難しいと思います。
試合の中で30本スクラムがあるとして、そのスクラムぜんぶをコントロールするためには、僕1人が頑張るだけでなく、8人が頑張らなきゃできないし、スクラムがダメならバックスもダメになります。スクラムが上手くいっても、その後でボールを落としたらダメになるし、それが完璧にできるチームが強い訳で、そこに難しさがあります。
それがワンプレーでも多く上手くいったときの達成感が喜びだし、プレー1つ1つの中に喜びがあります。それがラグビーのたまらない魅力です。スクラムをコントロールできて、上手くボールが出せて、頭を上げたときにトライしていたら、バックスに感謝の気持ちでいっぱいになるし、バックスから「ナイススクラム!」と言ってくれたときの喜びは、試合中でも1つ1つが嬉しいですね。それがたまらない。
◆先ず走らなきゃダメ
—— 性格は図太い方ですか?
プレッシャーを感じないようになりました。図太くなったと思います。国立に出たときみたいに、1個1個プレッシャーを感じてたら、キリがないですから。たくさんの観客や親にも見られている訳ですが、もともと神経質な方ではないので、いつ頃からか感じなくなりました。
大学に入って初めて秩父宮で試合したとき、それまで高校で砂の普通のグラウンドでやってきましたから、ラグビーの専門の競技場で芝もあったので、緊張したのを覚えています。大学3、4年で図太くなってきましたが、さっき話した国立がいちばんデカかったんだと思います。
—— 親父さんは何か言われる方ですか?
スポーツは何に対してもそうですが先ず走らなきゃダメ、って言われてきました。野球をやっているときも、親父が家にいるときには「お前、今日走りに行ったのか?」と毎日聞かれました。広島の実家の近くの川沿いがマラソンコースで、そこを一周していました。めんどくさい日もありましたが、毎日走りました。野球でもラグビーでも、とにかくもっと走り込みをしろ、と言われました。
あのとき言われた通りにもっとやっておけばよかった、といまは思います。あのときは、やってられないな、めんどくさいな、と思っていましたが、いまでもフィットネス練習は好きではないですけど、やりたくない、じゃなくて、やらなきゃいけない、と思っています。
いま親父は東京の世田谷に住んでますから、府中まで車でよく来ます。大阪の試合でも、たまに来たりします。野球とラグビーはシーズンがかぶらないので、時間があるときにはよく来ます。
◆憧れがあって強いところでやりたい
—— 大学を卒業してサントリーに入ったのは?
坂田さん(正彰)は法政出身でとても有名な人でした。大学のコーチの駒井さんと仲が良くて、その繋がりで飯を食いに行ったんです。それでトップレベルの人と話ができる、教えてもらえるし、やるんだったら強いところでやりたいと思いました。サントリーは当時ウエールズを倒したりしていて強かったし、スターがいっぱいいました。
憧れがあって、強いところでやりたいし、入ってダメだったら3年で辞めればいいから、と母親に言われたりしました。会社もラグビーをやりながら仕事もやらせてくれるというし、トップチームに入ってやりたかったので、サントリーに入りました。
—— 入ってどうでしたか
1年目は戦力外でした。土田さん(雅人)が監督のときでしたが、サントリーに入れた時点でラッキーで、どこまで通用するかは自信がありませんでした。でも自分を試してみたいという気持ちがあったので、あわてなかったんです。とにかく練習についていけるように、周りについていけるように、ただひたすらやっていました。
入って最初にスクラムを2、3本組んだら「危ないから、どいとけ」と言われました。それに比べると今年の1年目の選手たちは優秀ですね。前田(航平)とか強いですしね。とにかくそのときは、チームプレーにお前は別に入らなくていい、という感じでした。だからただひたすら練習していました。
その頃は毎日が慣れなくて、生活のリズムが作れませんでした。朝から仕事やって、練習に来て、できる限り練習したあと帰って寝るだけでした。それしかなかったんです。これをやっとけというメニューを与えられて、余った時間にこれをやれば強くなれると信じてやっていました。コーチ陣や監督がメニューを組んでくれていましたので、周りを信じて自分を信じて練習していました。
—— 試合に出たのは?
試合に出たのは2年目です。トップリーグが始まった年(03年)ですね。神戸製鋼との国立競技場での開幕戦でした。膝を痛めていたんですが、先発で出て前半最後の方で引っ込みました。緊張もありましたので、内容はあまり覚えてません。
それで2年目はそれなりに出たり出なかったりで、3年目は練習のときからAチームでやらせてもらうようになりだして、最初は「ここにいていいのかな?」と思いました。プロップはいかに安定したスクラム組むか、リフティングするかに、プレーヤーとして信頼されるかどうかがかかっています。
プロップは地味ですが、だんだん試合でできる感触を得て、与えられたプレー、押されない仕事をできるようになったと思ったのが3年目の途中でした。仲間に信頼されるために、長谷川さん(慎)、直人さん(中村/フォワードコーチ)が見てくれて、教えてもらったことが少しずつできるようになったと思います。
◆半分以上スクラムのコントロールができている
—— 今年はどうでしょう?
今年は春のオープン戦で、半分以上スクラムのコントロールができたと思います。右アップとか左アップとかですね。ただ逆に半分近くはできていないので、相手がこう組んできたらこう組むというところの、相手が少し強くなってきた場合の対処法は、自分の中でとれていなかったと思います。その人が相手だとできない、そのチームだとコントロールできない、ぜんぶ上手くできない、だとチームは困る訳ですよね。それでは試合ができないし、僕も困ります。
そういういい意味での課題が、春シーズンに見つかりました。チームに求められるものが明確で、やるべきことが見つかった、いい意味で課題が見つかったと思います。どのチームも春だとまだ荒削りなので、それをいかにつめていけるかはこれからです ね。
今年は去年と変わっていて、山岡さん(俊)が日本代表でいないので、青木(佑輔)と組んでいますが、フロントローのコミュニケーションだったり、いろいろと組み方やバインド(※2)の取り方、ロックのつき方を練習しています。ロックがやりやすくしかもフッカーもやりやすいやり方も見つかりました。
※2:バインド=「手の握りのことですが、フロントローでのバインドとは、スクラムのときのプロップとフッカーの繋ぎ目で、プロップはフッカーを、フッカーはプロップを握ることをバインディングと言います」(解説:中村直人コーチ)
個人的には、去年までできていたヒットの部分が良くなかったんで、そのレベルをもっと上げていきたいと思います。タイミングや力の出し方とか、レフリーの声というより8人がフッカーに合わせる方法、それをつめていかなきゃいけないと思っています。ヒットしても、上半身のコアの部分に力が入ってなかったら意味ないんです。それができていないので、コアのトレーニングをしようと思います。
—— 体力には自信がある
あまり怪我で長期休んだことはないですね。休んで1~2週間程度です。
—— あらためて今年の目標を聞かせてください
スクラムコントロールです。いちばん僕にチームから求められているものですから、シーズンを通してスクラムコントロールしていきたいですね。チーム全体としては、もちろん、いちばん上です。個人的にもチームとしても、上を目指すことしか考えられません。いまはラグビーのみです。あれもこれもは苦手なんです。ラグビーをやって10年以上、ここまで来たらラグビーは生活の一部ですし、自分の一部です。それが当たり前だと思いますし、それをエンジョイしています。
(インタビュー&構成:針谷和昌)