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SUNGOLIATH

SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2006年6月13日

#20 エディ ジョーンズ 『よいプレーをすればすごく美しいスポーツ』

◆日本に年2~3回来る

—— 先ずサントリーと貴方が出会ったきっかけを教えてください?

ファーストコンタクトは88年、サントリーがオーストラリア・ツアーにやってきたときです。そのときランドウィックという自分がいたクラブと試合をしたのが最初です。そのあとにモルツを飲んで(笑)、スチダ監督、ムズカシイネ(*と言いつつ日本語はかなり流暢)....

—— ツチダ監督(土田雅人)ですね

そう、土田さんが監督だった96年に、アドバイザーとして3~4週間、サントリーを教えに来ました。そして97年4月、吉野ヘッドコーチ(俊郎)のときに、サントリーのコーチとして3年やることが決まってやって来ました。でもその年の8月にACT(豪州首都圏)ブランビーズから話が来て、9月にサントリーを去りました。それ以降、サントリーにはテクニカルアドバイザーという形で残りました。

—— それ以降、どれくらいのペースで来日されてるんですか?

1年に4~6週間、日本に来ています。回数でいうと年に2~3回、それぞれ1~2週間ずつぐらいですね。

エディ・ジョーンズ_画像1

—— 現役時代はどんな選手で、コーチになったのはいつからですか?

プレーヤーとしてはフッカーをやっていました。背番号2番です。小さい選手でした。92年に現役を引退して、そのあと高校の教師になり、94年から校長になりました。96年にプロのコーチになることを決心して、日本に来て東海大学のコーチになりました。私がコーチをやったのは日本が初めてです。東海大学には80人ぐらいの選手がいて、コーチは私1人でした。だからすごく大変でした。人数が多くてそのときは大変だったけど、計画することや大人数の指導方法とか、覚えることができたと思います。その年に、日本代表チームのフォワードのコーチもしました。

—— 初めて日本に来たのは

95年の東海大学の夏合宿で青森に行ったのが最初です。そしてその次の合宿が長野県の菅平でした。

◆自分ができることはサントリーのためにしたい

—— それだけ関わってこられた日本のどこが好きですか?

いっぱいあります。先ずコーチとして日本に来て、グラウンドに立ってコーチをすることが好きです。選手たちに指導をするのが好きなんです。そして家族の面から考えると、日本はすごく大切な国です。私の妻は日本人ですし、私のお母さんは日本人とのハーフです。だから私はクォーターですね。母は広島生まれですが、家では日本語をしゃべりません。サントリーとも長いつき合いですので、自分ができることはサントリーのためにしたいと思っています。短い期間でしたが、サントリーのフルタイムコーチもやりました。私は運がよくて、1998年から2001年にかけてブランビーズの監督の仕事がきました。そこで4年やってオーストラリアのチームとして初めてスーパー12(現在はスーパー14)で優勝することができて、それからオーストラリア代表監督の話がきました。それから4年間、代表監督をやって、この先はクィーンズランドレッズの監督をやることになっています。

エディ・ジョーンズ_画像2

—— 現状、日本のラグビーはどうですか

準備の面ではプロ意識を持ち始めているところだと思います。いまはオーストラリアやニュージーランドのチームがやっているプログラムを、日本の企業チームもやっていると思います。でも大学などのチームの準備は変わっていない、これは関東学院大学と早稲田大学以外のことを言っていますが、この両校以外、変わっていないと思います。初めて日本に来たときは、古いスタイルのラグビーをやっていました。ディフェンスがすごく弱かったそのときから比べると、日本のラグビーのレベルはかなり上がっていると思います。ディフェンスのレベルも上がっている。その代わりに、アタックの想像力が低下しているような気がします。そこがちょっと残念ですね。

—— それ(アタックの想像力が低下)は何故だと思いますか?

常に危くないアプローチをとっているように見えます。低いリスク。そういう意識も含めて、サントリーが前に進むラグビーを目指しているのは、いいことです。日本のラグビーを背負っていくような気持ちでいくことは、とても大事なことだと思います。

◆監督といい会話をしている

—— 新しい清宮監督はエディさんから見ていかがでしょう

清宮監督は、そのようなすごいビジョンと意識を持っていると思います。ラグビーはアタックで上達する方がいつも大変なのですが、日本に今回来てから、ずいぶん監督といい会話をしていると思っています。

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—— 最初に清宮監督と会ったのは?

96年、彼が選手のときです。すごくいい選手でした。頭を使うタフな選手。その要素を本人が今のチームに持ってきていると思います。

—— エディさん自体の選手時代は?

私は体が小さくて、現在、173cm、82kgです。ゲームセンスとスキルは並み以上にあったと思います。

—— ラグビーでいちばんの想い出は?

自分のクラブチーム・ランドウィックが、1988年にオールブラックスと対戦したんですが、これがニュージーランド代表とクラブチームが対戦した初めての対戦だったんです。オールブラックスは1987年の第1回ラグビーワールドカップ優勝チームですので、とても強いチームでした。そのチームを相手に、21-9で負けました。オールブラックスが来たそのツアーでは、いちばん得点差の少ない試合でした。とてもファンタスティックで、クラブチームとしてみれば、快挙といってもいいくらいです。サントリーがウエールズに勝ったときと、同じかも知れません。

—— そのときプレーヤーとしてのエディさんは?

グッド。ずいぶんいい仕事をしました。

—— エディさんはオーストラリア代表だったことがあるのですか?

ニューサウスウェールズ代表には、15回選ばれています。ワラビーズ(*オーストラリア代表チーム)では"スタンドバイ"(補欠)でしたが、代表チームでプレーするほどの技術はありませんでした。

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◆この1分間1分間が最高なんだ

—— そうすると監督として代表にデビューしたときは、物凄く嬉しかったのでは?

ファンタスティックでした。最高、いままででいちばん嬉しい気持ちでした。もちろんラグビーはプレーした方がいいけれど、その次にはコーチとしての喜びがあるので、そういう経験ができたことに感謝していますし、ラッキーだったし、とても光栄だったと思っています。

—— オーストラリア代表監督の仕事は大変でしたか?

オーストラリア代表は、1999年のワールドカップで優勝しているので、次の2003年のワールドカップはいちばん大変な状況でした。選手たちも1999年に一度ピークに持っていったので、その期間に自分たちのポテンシャルに達してしまったと思った人もいたと思います。それでその後、2003年のために再び準備しなければいけなかったのですが、チームのレベルを保つことは大変でしたし、メディアからのプレッシャーもすごかったんです。その頃どう思っていたかというと、この1分間1分間が最高なんだ、ということでした。

—— コーチとして大切にしていることは何でしょう

自分の選手をリスペクト(尊敬)することです。そうすれば選手たちも、自分をリスペクトしてくれます。そして選手が常にいい状態でプレーできるような環境を作ることが大事です。

グラウンドから見た面では、オーストラリア代表チームをコーチすることも、サントリーをコーチすることも変わりがないんです。違うレベルでやっているのかもしれないけど内容は同じで、技術面にしてもグラウンドでやっている練習やトレーニングしても、どちらも同じことだと思っています。

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◆ラグビーはぜんぶが繋がっている

—— いつからラグビーを始めたんですか?

ラグビーは13歳からです。10~15歳のリーグに入ってやっていましたが、子供の頃からラグビーとクリケットをやっていました。クリケットは最終的にトップのリーグでプレーしていましたが、22歳でクリケットをリタイアして、ラグビーに専念するようになりました。クリケットでなくラグビーを選んだのは、ラグビーの方が上手かったからです。クリケットはチーム対チームではなくて、あくまで個人ゲームだと思うんです。ちょっと野球に似ています。

ラグビーはぜんぶが繋がっていて、自分がやることは他人に必ず影響を及ぼします。たぶん最もチームというものが大切な世界だと思います。それにいろんなプレーのスタイルがあって、いろんなやり方で結果が残せます。よいレベルでよいプレーをすれば、見る側からするとすごく美しいスポーツです。肉体的なコンテストでもあり、技術も頭も使わなければいけません。

—— ご兄妹、ご家族は?

2人姉がいて、オーストラリアに住んでいます。父はメルボルン生まれですが、日本に軍隊としてきて、通訳をやっていた母と知り合いました。母はアメリカ人との2世です。

—— 96年に初めて日本に来たときはどう思いましたか

ずっとオーストラリアの家族として育ったから、ぜんぜん文化が違うと思いました。後から考えれば普通のオーストラリアの家とは、ちょっと違うふうに育てられたんだと思います。母の育て方の中に日本人の育て方があったことを、日本に来てずいぶん経ってから気がつきました。

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◆子供は何かのスポーツをやるべき

—— 奥さんが日本人なのはお母さんが影響していますか?

わかりません。私も妻も同じ学校で教師をしていました。妻はお父さんの仕事でオーストラリアに10年いて、大学進学のために日本に戻りました。明治大学を卒業して1年間会社へ勤め、その後オーストラリアへ来て、私と同じ学校で日本語を教えていました。私はそれまでその高校で体育の教師でしたが、会ったときはその高校の校長でした。

—— 会った瞬間に何か感じましたか?

すごく優しい女性だなと思いましたが、詳しいことは思い出せない(笑)。母も特に日本人と結婚することを期待していたわけではありませんが、今は母と妻はすごく仲がいいと思います。

1年に2回ぐらい、家族(妻・娘)を日本に連れて来ています。1人娘が母方のおばあちゃんに会いに来ることも大切ですから。妻と娘が会話するときは日本語しか話しません。自分と娘とは英語です。そういう家のルールがあります。娘の名前はチェルシー、いま13歳でテニスと水泳をやっています。

—— 息子さんだったらラグビーでしたね

ラグビーをやってくれたら嬉しいけれど、子供は何かのスポーツをやるべきだと思います。何であろうといいんです。そして若いコーチたちは、子供たちが楽しむことを前提としてコーチすべきです。これはいま世界中で同じだと思いますが、他にやることがいろいろあるので、スポーツをやる人がどんどん減ってきています。これは世界中の心配ごとであり問題だと思います。1年前に日本で読んだ新聞に、子供たちが肥満になって、運動をしないしファーストフードを食べてパソコンの前で長時間すごしているということが書いてありました。

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◆スーパー14のチャンピオンになりたい

—— いまの目標は?

毎日、前の日よりいいコーチをしたいと思っています。そしてスーパー14のチャンピオンになりたいですね。その後、他の国のコーチになって、ワールドカップにそのチームを連れて行きたいと思います。ちょっと弱い国、日本とか太平洋の国々、フィジーとかトンガとかサモアぐらいのレベルの国のコーチになって、そのレベルを上げてみたいと思います。

—— いまのサントリーについてどう考えてますか?

すごくいい時期があった後、3年間ずいぶん残念な結果だったと思います。いまはリクルートもいいし、サントリーにはアタックスタイルの目立つようなラグビーを期待しています。ユニークなラグビースタイルです。

—— 新人についてはいかがですか?

若い選手たちにはハングリーさが見えます。スキルレベルへの関心がすごく高く、それはすごく頼もしいことだと思います。彼らが気をつけなくてはいけないことは、大学のラグビーとトップリーグのラグビーの違いはとても大きいということです。トップリーグで活躍するためには充分なよい準備をしないといけません。

例えば今朝も佐々木(隆道)選手が、今週4回目のウエイトセッションをやっている、そういうことがよい準備をしているという意味です。スキルはあるのですから、肉体的に大きいチームと対決するために、そのような準備をしないといけないと思います。佐々木選手はいい例だと思います。サントリーのいまいちばん基礎的な土台が作られているんです。頼もしいと思います。

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チーム全体として、いますごくいいコーチングスタッフが揃っています。そしてまぁまぁの通訳(笑/*と言いながら通訳のジェフの膝をたたく)。形は整っていると思います。

—— 今度はいつ日本に来るのでしょう

たぶん8月です。オーストラリアのスケジュールは、2~5月にリーグ戦があり、9月に小さなトーナメントがあるので、8月に来ることになると思います。

—— 最後に、いちばん好きな日本食は?

寿司。ウニと白子がいちばん好きです。そしてモルツ(笑)。

(協力 通訳 ジェフリー・カトラー/インタビュー&構成 針谷和昌)

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