2006年6月 2日
#16 坂田 正彰 『京都からラグビーをするため愛媛へ』- 1
◆水泳を続けたら日本で3本の指に入る
—— 生まれたのは京都府のどちらでしょう?
長岡京市で生まれました。3、4歳の時に滋賀県の大津に引っ越し、そこで水泳とラグビーを並行して始めました。小学校、中学校と京都のスイミングスクールで寮に入って水泳をやって、それから水泳が嫌になって、ラグビーをするために愛媛県の松山の新田高校に入りました。新田高校から法政大学へ進み、大学では僕が4年の時に大久保直弥が1年で入ってきました。高校の時バレーをやっていた彼は、ムチャクチャ細かったんですよ。バーベルも60kgが挙がらなかった。もう1人、高校でボート部だった選手も入ってきましたね。その彼はBチームぐらいまで上がってきたと思います。
—— 水泳を辞めてラグビーに専念したのは?
小学校1年からスイミングスクールに兄貴と通っていました。だんだん上に上がって1級まできて、選手コースへと進んで、大会に出るというふうになっていきますよね。毎日滋賀から京都へ通って、練習して京都に泊って、翌朝学校へ行くためにまた大津まできてという生活を続けているうちに、水泳は個人スポーツでもあるし、だんだん嫌になってきたんです。ジュニアオリンピックにも出させてもらったし、中3の時もがんばったんですが、記録も少し落ちてきていました。
そのころ兄貴が滋賀県の膳所(ぜぜ)高校というところで、マネージャーが10人ぐらいいるラグビー部で"なんちゃってラグビー"をやってたんですが、花園にも出たりしていました。それを見ていて僕もラグビーをやろうと決めて、水泳のコーチにそう言ったら、「このまま水泳を続けていたら日本で3本か5本の指に入るような選手になれるのに、ラグビーではそんなところには入らないぞ」って言われました。
◆高校は花園に行けるところ
でも、自分はラグビーがいいと思ったので、失礼しますと言って、ラグビーを基準とした高校を探しました。本来は関西の高校へ行って花園に行きたいなと思っていましたが、花園に行けるところ、同志社香里高や報徳学院、天理高校なんかの願書を集めたりもしました。愛媛の新田高校は何年も連続で花園に出ていて、中学の先生も知り合いがいるということで紹介して下さり、兄貴と一緒の膳所高校を先ず受けたんですが落ちちゃって、公立に落ちた場合の滑り止めとして受けていた私立の新田高校へ行くしかなくなりました。そこから本格的なラグビーがスタートしたんです。
—— 子供の頃も水泳と並行してラグビーをやっていたんですよね
スポーツ少年団にラグビーがあったので、小学校4年から6年までやりました。もともとやり始めたのは、健康のためにということで、お袋と近所の友達と行ったんですが、そのうちみんな辞めちゃって、僕だけ続けました。その後の選手コースで新しい友達ができて、楽しかったですよ。
水泳は日曜と月曜がお休みだったんです。たまたま日曜日にラグビーの練習をやっていて、近所のお父さんがコーチをやっていて「やるか?」と声を掛けてくれたんです。それまで球技はぜんぜんやったことがなかったんですが、小学校4年生から選んでやる部活があって、4年の時はサッカーだったかな?5年でバドミントン、6年では料理クラブでしたから。料理は作るのも食うのも好きですからね。
—— 「ラグビーではそんなところには入らない」と言われたコーチを見返そうとか 思いました?
言われた時はそれもあったけれど、とにかく最初は花園に出たいな、と思っていました。高校3年の時に高校代表に選ばれて、大変やったけど良かったな、と思いました。高校では1年の時は補欠で出られず、2、3年の時は花園に出て、3年の時はキャプテンでもありました。
◆前十字靭帯を切る怪我
—— 大学時代は?
僕は早稲田に行きたかったんですが、でも前の年にかなり採ったので僕の年は人を採ってくれないと言われて、法政大学は当時イジメとかの噂があったので、浪人して早稲田に行きたいと言ったら「バカモン!」と新田高校の福澤監督に怒られました。体育教官室だったんですが、中のお湯が沸騰しているやかんを投げつけられそうな勢いでした。結果的にそれからの4年間、早稲田は1回も優勝していないので、巡り合わせだなと思います。
法政では1年から試合に出ていましたが、交流戦どまりでした。2年目に優勝し、3年目は準優勝、4年ではベスト8でしたが、4年の時は僕自身、左膝の前十字靭帯を切って出場できませんでした。手術してギブスして、半年経ったら普通に動けるようになるので、残りの半年はリハビリでした。手術した95年はワールドカップ・南アフリカ大会があって、行けるかな?と思っていたので怪我で行けなくなって残念でした。
手術は阪神・淡路大震災の日だったんです。12月の帝京戦で怪我して、グラウンドからそのままジャージで病院に担がれていって、もの凄く腫れていたので一ヶ月そのままの状態でおいておいてから、手術したんです。手術は東京でしたんですが、関西から両親が来ていて、その面では向こうじゃなくて良かったんですが、病室で10日寝てましたから、その間にどんどん被害の状況が報道されてきました。両親の家自体は、神戸ではなかったのでグラッときたぐらいだったそうです。
◆大学2年で日本代表
—— 初めて日本代表になったのは?
大学2年生の時です。その時は何が何だかわからなかった感じです。いま東芝の監督をやっている薫ちゃん(薫田真広)や吉田義人、堀越正巳とか錚々たるメンバーの中に入った学生でしたから。その頃はテストマッチにも出ましたし、強化試合もあったし、パシフィックリム選手権というフィジー、サモア、トンガ、日本、アメリカ、カナダの交流戦もあって、そういう大会にも出ていました。あの頃はいろんな大会がありましたね。
—— 手術の後はどうだったんですか?
大震災のあった日(1/17)に手術して、2、3月はリハビリ、その年の4月にサントリーに入社したんです。だから入社式だけ出て、研修なんかひとつも行ってないんです。会社で配属された部署は総務部で、清宮監督もいましたよ。それでその年の9月か10月にラグビー部に復帰しました。その後はトントンと行ってその年に日本一。へなちょこチームだったんですが、あっという間に日本一になった感じです。神がかっていたし、運も良かったと思います。この年は全試合に出ました。
怪我した後、前十字靭帯を切ってもプレーしている人もいたので、僕もやってみようと思ったんですが、ダメでした。それでリハビリやウェートをしっかりとした上で、手術したんです。十字靭帯は簡単にいうと切れるとなくなっちゃうんです。だからお尻の筋肉を移植して、骨に穴をあけて引っかけて、そうやって作っていくとまたできてくるんですね。
手術した後はホントに痛かったですよ。中村直人(現フォワードコーチ)と長谷川慎が見舞いに来てくれたんですが、ちょうど麻酔が切れて死にそうに痛い時で、2人で漫才やりながら病室に入って来てくれたんですが、「ホントに俺のことを思うなら帰って!」と言うのが精一杯でした。それほど痛かった。
これ見て下さい。その後に右足もやったので、両膝とも前十字靭帯を切って手術しているんですが(*と言って両膝の傷跡を見せてくれたのが上の写真)、左足の方が曲がりが鈍いんですね。正座しづらいんです。走ったりするのは両足ともいまは問題ありません。
◆リハビリがしんどい
—— 怪我した後の変化は?
1回目に怪我した時に、ワールドカップへ行きたかったなと思いましたし、4年生で怪我したんで、なにくそっていうよりも、もう少しやりたいなっていうのがありました。1回目は初めての大きな怪我だったんですが、怪我したからマイナスからゼロに上げて、ゼロからプラスに持って行かなければいけないというところで、リハビリってしんどいものだと知りました。自分との闘いもあるし、周りと同じことができないし、あせりもあるし、ゲーム感覚もなくなるし.....。
そのリハビリのしんどさを知ったので、それからは怪我したくないという思いが強くなって、そのためにトレーニングをするし、体のケアもするというサイクルができてきました。1回目は94年の年末、この時は試合中で後ろに転がったボールを取りに行こうと反転しようとしたら、左足のかかとがグラウンドに埋まってしまい、かかとだけ残したまま体も膝もグルッと回ってしまい、切れてしまったんです。疲労が原因だったのかも知れません。大学でキャプテンをやっていて、代表の遠征にも行って、精神的にも肉体的にも疲れていたんだと思います。
次の怪我が97年で、サントリーで練習中に上から乗っかられて、今度は逆の右膝の前十字靭帯を切りました。この時もキャプテンだったんです。長谷川慎さんと田中澄憲がバイスキャプテンをやってくれていた年ですが、社会人大会の予選で近鉄に負けて敗退という、最弱の年のキャプテンでした。
(インタビュー&構成 針谷和昌)