SPIRITS of SUNGOLIATH

スピリッツオブサンゴリアス

ロングインタビュー

2006年5月25日

#14 田中 澄憲 『顔を踏まれ膝蹴りがとんでくる』- 1

◆長いラグビー人生の中の経験として良かった

—— キャプテンだった去年はどんなシーズンでしたか?

永友(洋司)監督の3年間のうち最初の2年は早野(貴大)さんがキャプテンをやっていて、3年目の去年、洋司さんから「キャプテンをやってくれ」と言われたのですが、正直言って、もうそんな歳でもないなと思ったし、これからのことを考えると若い人がやらなくちゃいけないんじゃないかと思いました。

洋司さんにも「僕じゃない方がいいのでは?」と伝えましたが、「これから何年かを考えるのではなくて、今年1年のスパンで考えて結果を出すためにやってほしい」と洋司さんから言われて、それで僕自身もその1年で結果を出すつもりで、キャプテンを受けることに決めたんです。

昨シーズンは最後のマイクロソフトカップ決勝まで行ったんですが、僕自身は結局、結果がでなかったと思うし、満足していないけれど、キャプテンをやった経験が、長いラグビー人生の中の経験として良かったのではとも思います。そういう意味ではいい1年だったかもしれません。

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—— 具体的にどんな経験を?

人を動かすというか、みんなをどういうふうに1つの方向にもっていくのか、というところでしょうか。いろんな人がチームにいて、どうしなければいけないか、チームとはどういうものか、いままで以上に考える機会が増えました。

—— 行動で引っ張るタイプですか?言葉で引っ張るタイプですか?

しゃべるのはあまり好きでないんです。どっちかというと理屈が好きじゃなくて、やればいいじゃん、というタイプなので、理論づけて人をその方向に持っていくのがあまりできるタイプではありません。僕自身キャプテンに選ばれたのはメンタルなものだと思っていましたので、熱いものを出していくことをやっていかなきゃいけないと思ってやっていました。

そこについては自分ではやったつもりですけれど、結構ここ数年、うちのラグビースタイルはシステムありきでしたので、どうしてもメンタルやフィジカルの大事な部分、相手に負けたくない部分を、見ていなかった訳ではないんですけど、そこよりもシステムの方に逃げちゃっている気がしたので、そういうところをみんなに言うのが僕の役目だと思っていました。

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◆まさに喧嘩

—— 人づてに聞きましたが永友監督の現役時代に激しいポジション争いをしたそうですね

僕が入ったとき、洋司さんはキャプテンでポジションは同じ9番でした。僕は負けたくないし、試合に出たかったから、アタックディフェンスとかの練習中は、まさに喧嘩でした。顔は踏まれるわ、膝蹴りはとんでくるわで、やられたらこっちもやり返していましたので、周りはちょっと引くような感じで見ていました。

僕はとにかく洋司さんを意識していました。洋司さんは大人だったので、そういう練習が終わった後に「じゃ一緒にやるか」なんて声をかけてくれるんですが、僕も若かったんで「いーです」と(笑)。

—— そういう現役時代の闘いがあって、永友監督も田中選手をキャプテンに指名したんですね

あの頃は選手たちにも不満があったと感じていましたし、監督も1人で考えて何でも1人でやってしまうタイプだったので、キャプテンになった最初の挨拶で「僕は昔から監督と喧嘩することには慣れているんで、キャプテンになったからにはそれを活かしたい。監督に言いたいことがあったら、いつでも言ってきてくれ」と選手達に言いました。

そうやっていったら、洋司さんもだいぶ変わってくれました。前よりは意見を聞くようになってくれたし、林(雅人)コーチが去年から入ったことも大きかったと思います。心に余裕ができて、1人だけでどうしようというのではなく、人に任せてくれるようになったのではないかと思います。

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—— 入って1年目のバトルから、2年、3年目は変わってきましたか?

そうですね、さすがに僕もだいぶ大人になってきましたが、ポジション争いがあったので、喧嘩はしなくてもライバルとしての争いはウチに秘めるものがありました。最初のうちはラグビーのライバルというよりは、喧嘩相手で、リスペクトもなかった。ずっとやっていくうちにリスペクトが生まれてきて、洋司さんの上手いところを認める、という気持ちに切り替わったんです。

洋司さんにあって自分に足りないものがいっぱいあることがわかって、洋司さんを見て勉強するようになりました。負けているところはここだ、と冷静に分析できるようになりました。お互いに仲良くはなれないけれど、無言の同士、という感じです。闘ってわかりあえたという部分が、最後の方ではありました。

—— そこの心境の変化は何がきっかけだったんですか?

「何で僕は試合に出れないんだ?」と当時バックス・コーチだったアンディ(フレンド)コーチに聞いたんです。そうしたら答えは「実力とかはそんなに変わらない、ただお前には経験がない」と言われました。「試合に出してもらえないから経験も積めない」と答えましたが「日本では難しいな」と、らちがあかない。それで土田(雅人)監督にも聞きに行きました。そうすると「俺はお前を使いたいけれど、みんながお前を使うって言わない。それは洋司には信頼感があって、お前にはないからだ」と言われたんです。

あぁ、そうだな、と思って、それからとくにフォワードに対して信頼関係を築こうとしたし、洋司さんのここが上手いなっていうところが見えるようになりました。それが歳を重ねるということなんでしょうね(笑)。

—— そんなバトルは昔からやってたんですか?

もともと勝ち気で負けず嫌いなところがありましたが、チーム内でそれだけやり合うっていうのは、社会人になってからですね。同じポジションでの争いでそこまでやったことはないです。試合中に喧嘩っぽいことをするのは、高校生ぐらいではよくやっていましたけど。

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◆あれやってみたい

—— ラグビーを始めたきっかけは、その勝ち気なところにあったんですか?

僕は小さい頃、泣き虫で弱かったんです。祖母、おばあちゃんと散歩していたら、たまたまラグビーをやっているのを僕が見て、「あれ、やってみたい」って言ったみたいなんです。僕はぜんぜん覚えてないんですが、知らない間にラグビーをやっていたという感じです。

—— 最初から面白かったんですか?

最初は嫌でした。ラグビースクールに入って、毎週土・日が練習なんですが、ちょうど日曜日の練習時間がテレビの「ルパン3世」と重なっていて、さぼりたくてしょうがなかった。泣きながら親に連れられていってやっていました。しかし、小学校6年生のとき、ほんとにラグビーが面白いと思ったんです。

—— それはなぜ?

コーチとの出会いです。ラグビースクールでもサッカーでも野球でも、その辺のお父さんたちが教えていて、彼らは自分のストレス解消のために教えている人が多いと思うんです。例えば自分のストレス解消のためにノックを打ちたいと言って打っている人とかいますけれど、そういう人たちとは違って、数少ない「子供のために」という人だったんです。

小6のときのこのコーチは、子供の立場に立って、ラグビーの初歩から教えてくれました。この方は学生時代はハンドボールをやっていて、社会人になってからラグビーをやり始めたという人でした。そのコーチのもとでラグビーの楽しさが芽生えてきて、そうするとプレーも伸びだしたんです。

—— 他にやっていたスポーツは?

水泳を小学校6年までやっていたし、幼稚園からずっとスキーもやっていました。

—— 例えば走っていても倒れないとか、バランス系が得意なんですか?

そういえば、体幹トレーニングとかは、新田(博昭フィットネス&ストレングスコーチ)さんにも結構強い方だと言われました。そういうところは、小さい頃からのものがあるんじゃないかと思います。

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—— ご両親はスポーツ好きですか?

親は2人とも浅く広くスポーツをやるタイプです。

—— 中学でももちろんラグビーを選んだんですよね

中学でもラグビーを続けようと思ったんですが、伊丹市内の中学には1つもラグビー部がないんです。伊丹市の方針として、危ないから作っちゃいけない、ということでした。だから週1回のラグビースクールに通いました。足を速くしたいので、学校では陸上部に入ろうとしたんですが、ラグビースクールの校長先生から「陸上の試合も土日にあるから、ラグビーの試合に出られなくなる、やめなさい」と言われて、だから中学では"帰宅部"でした。

ラグビースクールは週1回の練習でした。僕らが中学に入ったときにできたスクールだったので、メンバーが15人いませんでした。帰宅部ですから、授業が終わるとすぐ家に帰り、自転車に乗って近くの公園にボールを持っていって、タッチフットボールをやっていました。毎日、自分たちで考えて好きな練習を日が暮れるまでやっていた。そうしたらラグビーが上手くなったんです。

中1のときはメンバー不足で大会に出られなくて、中2になって15人ぎりぎりで県の大会に出ました。それで準優勝。中3のときはそこそこのメンバーが集まっていて充実していたので、優勝できました。

(インタビュー&構成 針谷和昌)

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