2006年5月 8日
#10 大久保 直弥 『ヘッズアップ』- 1
◆中学では野球、高校ではバレー、大学でラグビー
—— 高校の時はバレーボールをやっていたそうですが、どんな選手でしたか?
並です。インターハイに出て、朝日健太郎(※1)とは高校(法政二高)の時のインターハイで対戦しました。彼は「西の朝日」と言われていて有名でした。センターでポジションが一緒でした。大学へ行ってもバレーを、という話もあったんですが、まぁ、僕にはバレーのセンスがなかったと思います。
※1:朝日健太郎
プロビーチバレー選手/法政大学出身/
元サントリーバレー部(サンバーズ)/元バレー男子全日本
バレーの前、中学時代(南大師中)では野球をやってました。ポジションはキャッチャーです。野球もバレーもダメで、ラグビーを始めたというところでしょうか。母がバレーをやっていて、親父は野球をやっていて、弟(※2)もバレーをやっている。弟はまだ堺(※3)でバレーをやっていて、こないだVリーグ優勝しましたが、弟は出ていませんでした。リベロなんですが、なかなかレギュラーを獲るのは難しいようです。
※2:弟=大久保茂和
1980年2月9日生まれ、身長185cm、体重82kg
元・新日鉄バレー部が解散して新たにクラブチームとして立ち上げ、Vリーグ前年度6位から今シーズンは優勝決定戦でサントリーを破って初優勝、中垣内祐一監督 |
—— ラグビーを始めたきっかけは?
ラグビーのルールもまったく知らないし、興味もなかったんで、突然やることになって、むしろ周りの人たちがビックリしていました。僕自身付属の高校にいて、仲良くしていた仲間がアメフトに多くいたので、大学で僕もやりたいななんて当時は考えてました。京大なんかでも素人からアメフトを大学で始める人が多いし、そんなことを考えていたんですが、高校のバレー部の監督が、たまたまラグビーが好きで、今度ラグビー部の監督に会う機会を作るから、と言われたんです。
結果的にそれがラグビーをやるきっかけになりました。監督はいまも健在ですけれど、まさか将来ラグビーのプロになるとは、思ってもみなかったでしょうね。なんとなく始めたラグビーですが、結果的には自分に合っていたと思います。
—— どこが合っていたのでしょうか?
当時は合っているとは思ってなかったんですが、ラグビーの素人だったので、ベンチプレスとかウエイトとか、やったことがなかったし、もとがゼロだから、やればやるほど身についてくるので、面白かった。
—— バレーになくて、ラグビーにあるものがあった?
バレー選手には性格的に繊細な人が多いし、体の線も細いと思います。インドアとアウトドアという違いもあるだろうし、コンタクトスポーツかどうかということもあるし、そういう点でその違いが出てくるのだと思います。泥だらけになる感覚は、バレーにはありません。
—— じゃあビーチバレーがもっと早くあれば、やってたかも知れない
いやぁ、あれこそセンスでしょ。
—— 野球選手の性格やラグビー選手の性格に特徴はありますか?
野球やってる頃はまだ子供の頃ですからよくわかりません。ラグビーはバレーに比べたら大雑把。いい意味でいい加減です。種目自体が合理的でないので、アメフトみたいにきっちりしている訳じゃなくて、だいたいのさじ加減という感じでしょう。
◆日本代表に呼ばれて欲が出てきた
—— ラグビーをやって、これだ、これをやっていこう、と思ったんですか?
ずっとやろうとは思っていなかった。プロの環境もまだなかったし、大学でもこれといった成績を残せなかったし、選手としても無名で実績がなかったし、サントリーに採ってもらって、ラッキーでしたし、感謝してます。
—— サントリーには自ら進んでアプローチを?
全然。なんとなく社会人でもできたらいいな、ぐらいに思っていました。サントリーには当時、法政大学から行った先輩は坂田(正彰)さんぐらいしかいなかったんですが、どういう訳か早めに誘ってもらったので、即決でした。
—— 社会人になってどうでした?
サントリーに入った年は、一緒に入った同期の人数が多かったんですけれど、みんな1年目から試合に出ていました。当時のチームはとても個性的なチームでした。この年は優勝していなくて、ベスト4?いや、確か決勝には行ったのかな?それでこの年が終わった後に、日本代表に呼ばれてしまって、その辺から国際試合とかテストマッチを経験して、何となく欲が出てきました。
—— 世界と対戦してみて思ったことは?
大学の狭い世界で生きてきたカエルが、世界にすごい選手がいっぱいいて、彼らとやっていくうちに、いかに自分が狭い世界で満足していたかがわかったという感じです。もっと高いレベルがあるということを知って、やっぱり世界で通用する選手を目指したいなと思い始めました。そこでまた運よくワールドカップが次の年にあって、巡り合わせもよかったんです。
—— 世界と比べて何が足りなかったんですか?
足りないのは、すべて。最初のワールドカップでは、タックルしかできなかったし、とにかく頭から行くことしか考えていませんでした。そういう場を楽しむ余裕というものがまったくなかった。ワールドカップには独特の雰囲気があるし、大学の八王子の山奥でのラグビーしか経験なかったところに、7万人の観衆の中でラグビーをするというのは土台無理な話でした。
◆ヘッズアップ、ヘッズダウン
—— その後、トップリーグが始まるまでの間は?
海外に挑戦したいという気持ちもあったけれど、キャプテンをやっていましたから、 サントリーのキャプテンとしての責任があって、運よくチームも勝ち続けている時だっ たので、とにかくサントリーの優勝と2003年のワールドカップ出場を目標にプレーを していました。
その間に、チームからオーストラリアに留学させてもらったりもしました。キャンベ ラに2か月です。スーパー12のブランビーズに留学して、プロ選手と一緒の生活を体 験しました。同期の田中(澄憲)と、もうサンゴリアスは辞めちゃった斉藤祐也と3 人一緒の留学でした。ブランビーズのメンバーは逆に、日本に対して興味を持ってい て、企業スポーツというシステムについて聞かれたりました。
オーストラリアのチームは地域密着型で、基本は州のチームでクラブの延長のような 感じです。西海岸のニューサウスウェールズ州とかクィーンズランド州のブリスベン ではとてもラグビーが盛んです。地域によってとても盛んなところがありますが、オー ストラリアには盛んなスポーツがたくさんあるし、トップと下のレベルには差があり ます。
その時のブランビーズはエディー・ジョーンズ(※4)が監督をしていました。だから 受け入れてくれた訳ですが、純粋にプロ選手の生活を体験できたので、とても興味が ありました。練習にしても、スピードならスピードのためのトレーニングがあるし、 とことんスキルを追求する練習方法があり、例えばスクラムならスクラムだけのコー チがいたりして、興味深かった。チームは組織としても細分化されていました。
※4:エディー・ジョーンズ=Eddie Jones
オーストラリア人
前オーストライア代表監督(2001-2005年)
1998年からサントリーラグビー部のアドバイザー(継続中)
そして才能さえあれば、19や20歳の選手がどんどん上のレベルへ上がっていける。行っ たのはシーズン中でしたので、ブランビーズのレギュラークラスのメンバーとは、な かなか一緒にからめなかったりしましたが、2軍の選手たちと一緒に練習する機会は 数多くあり、クラブの試合にも出ましたし、勉強になりました。
—— その時のオーストラリアから持ち帰った練習方法はありますか?
「ヘッズアップ」っていう言葉は、僕らが優勝した時にチームの仲間同士で言ってい た言葉ですが、これはブランビーズから借りてきた言葉です。相手に苦しい姿を見せ るな、苦しい時こそ頭を上げて強く見せろ、ということです。
—— その言葉は今でも使っていますか?
僕がキャプテンの時にたまたま使ったという感じで、今は使っていません。最近は体 もきつくなってきて、ヘッズダウンですけれど(笑)。
(インタビュー&構成 針谷和昌)