2006年4月13日
#3 長谷川 慎 『試合の流れを変えるスクラム』- 1
◆今年が最後
—— 去年からの怪我を治療中とのこと、状態はいかがでしょう?
怪我はもうちょっと簡単に考えていたんですが、思ったよりしっかりとした手術をしました。左肩ですが、これを治さなければ練習ができないので、ドクターに相談しながら復帰はゴールデンウィークあたりをターゲットにリハビリしています。去年のヤマハ戦(※1)でやった怪我です。やった時は、ごまかしごまかしやっていって、オフの間に治れば手術しなくていいということだったんですが、それが中途半端だったので手術をすることになりました。
※1:ヤマハ戦=05年10月23日/花園ラグビー場/
トップリーグ全11試合中の5試合目
—— 3月にチームみんなの前で「今年は最後なので」と言っていましたが.....
毎年そう言うんです。要はそういう気持ちで毎年やっているということです。去年も最後かなぁ、と思いながらやっていましたし、今年も最後だと言いましたが、何というんでしょうねぇ.....去年も優勝したら辞めていたのではないかと思いますし、今年も優勝すれば最後になると思ってやります。
—— 4歳の時にラグビースクール(京都ラグビースクール)へ入ってから30年目のシーズンですね
ラグビー30年目、フロントロー(※2)30年目です。プロップ(※3)かフッカー(※4)以外のポジションをやったことがない。
※2:フロントロー=スクラムの第1列を形成する3選手
※3:プロップ=フロントローの両側の選手
※4:フッカー=フロントローの真ん中の選手
—— ラグビーを始めたきっかけは?
母親が好きだったんです。僕は別にラグビーをやりたくなかったんですけれど。きっと母親は何かあったんですね、むかしラグビー選手と(笑)。ということ で、野球とかサッカーもあるのに、何を選ぶかの選択肢もなくてラグビーを始めました。母はずーっと応援に来てくれています。父は全然来なくて、社会人になってから、対戦している相手の大八木(※5)とか平尾(※6)という名前を聞いて、お前がそんなレベルでやっていたのかと初めて知った、という父親 です(笑)。
※5:大八木淳史=神戸製鋼(現アドバイザー)/日本代表キャップ30
※6:平尾誠二=神戸製鋼(現GM)/日本代表キャップ35
—— ご両親は何かスポーツをされていたんですか?
母はハンドボールで国体に出たそうです。父はプラモデルを作っている(笑)。もう僕は母親似でしたが、最近は趣味が多くなって、少し父親似になって来たかも知れません。
—— その趣味とは?
いろいろありますが、恥ずかしくて言えない(笑)。先ずは腕時計集め。十何個持っていますが、高いものもあれば安いものもある。今いちばんのお気に入りは、無印良品の1万円の腕時計。公園にある様な時計が腕時計になっていて、自動巻きなんです。
それからロードの自転車にハマって、今は2台目が来るのを待っている状態。イタリアのピナレロというチャリンコ業界では人気が高い自転車で、オフになってすぐ注文したんですけれど、オーダーしてから3か月待ちです。
小野澤(宏時)も僕の影響でハマってます。サントリーサイクリングクラブを2人で作ってますが(笑)、新人の長谷川(圭太)君には初任給はフレームに使い、パーツを毎月1個ずつ増やしていって、夏のボーナスのとき全体が完成する様にと言ってあります(笑)。スクーターにも一時期凝りました。250CCの大型車を持っていました。もう売りましたけれど、 元(げん/申騎)なんか、次は何ですか?と聞いてきます(笑)。好きになると、のめり込んでしまうタイプです。
—— ラグビーにのめり込み始めたのは?
どうですかねぇ?ほんとに目標が現実になって、一生懸命やり始めたのは、社会人になってからですね。昔から練習はするほうで、高校(東山高校)でも大学(中央大学)でもちゃんとやっていたけれど、社会人になってから本当に一生懸命やり始めたと思います。小学校5年から中学2年までは、ラグビーと一緒に柔道をやっていました。何となく武道をしたいと思って、中学ではラグビーの練習が終わってから、道場へ行っていました。いつ勉強してたのか(笑)。やってみて、個人競技は向いていない、と思いました。
—— どうしてそう思ったんですか?
何ででしょうね。たぶん僕は人に認めてもらうのを喜びとしてやっているからだと思います。心意気を感じてやるタイプなので、人とギスギスしてやりたくないです。
◆上のレベルでやりたい野望
—— ラグビーを続けたモチベーションは?
ずーっと高校の時も大学の時も、もっと上のレベルでやりたいという野望があって、それは昔から持っていました。社会人になって1年目から試合に出してもらって、サントリーでレギュラーになった時点で達成感はあったけれど、逆にここから落ちたくないという気持ちが強くなった。やっと掴んだところからは落ちたくない、ずっとそういう気持ちできています。
サントリー3年目の97年の春、初めて日本代表に選ばれました。この時はオマケみたいなフロントローで、リザーブの選手に怪我人が続出したので呼ばれたんです。水曜日に呼ばれて土曜日に試合があって、フランカーで出ました。秩父宮ラグビー場での香港戦でした。もちろん嬉しかったです。夢でしたし、達成感があった。
—— プレーはどうでしたか?
もともと緊張しないタイプですが、2回ボールを持って、2回とも反則を取られた。ノット・リリース・ザ・ボール(※7)、プレーは5分で終わりました。この試合、スタンドに来ていた清宮(克幸)さんが手を振ってくれたのを覚えています。今コーチの直人(中村)さんは先を越されて悔しかったらしい。
※7:ノット・リリース・ザ・ボール=タックルされたプレイヤーがボールを放さずにいること
その時は、まだラッキー的な要素があって呼んでもらった訳で、その後また代表から落ちたんですが、次の年のジャパン合宿に呼んでもらって、その時はフッカーでした。次の年にまた呼ばれた時は、ちょうどプロップに転向し始めた時期でした。フッカーの時も呼んでもらいたいと思っていましたが、もっと問答無用で太っていました。昔の僕を知っている奴に言わせれば、コロンコロンしていたという状態。足は速かったですけれど。
—— そういう時期を経て今があります
ここへきて、プロップの楽しさがわかってきました。30年やっていてつい最近というか、ここ7~8年楽しいなぁと思うんです。何が楽しいのか上手く言えないんだけれど、いちばん嬉しいのは、試合で流れを変えるスクラムが組めた時。「今日はお前らのお陰で勝てた」と言ってもらった試合が何試合かあったけれど、そういう時に快感を覚えます。
僕自身、今は負けたくない、レギュラーで試合に出たいという気持ちをいちばん持っていると思います。下の奴らを教えているけれども、彼らが強くなってきたらワクワクしてくる、そういうスクラムを教える楽しさも今はあります。
(インタビュー&構成 針谷和昌)