CLUB HOUSE

クラブハウス

サンゴリアスをもっと楽しむコラム

2015年12月 3日

「少年サンゴリアス」Vol.53 中靍隆彰『ラグビーにはまる』『ラグビーが楽しくて仕方がない』

「少年サンゴリアス」Vol.53 中靍隆彰『ラグビーにはまる』『ラグビーが楽しくて仕方がない』

生まれも育ちも福岡ですが、どんな少年だったかと言うと、背が小さくて、ガリガリでした。小4から親の薦めでラグビーを始めたんですが、最初は「行きたくない!」ってずっと言っていて、親に無理やり連れて行かれていました。

運動はよくしていました。足は速かったと思いますし、遊びでやるサッカーとかドッジボールとかは得意でした。父親自身が高校までラグビーをやって、大学では準体育会みたいなところでやって、会社に入ってからもやっていたそうで、やらせたかったみたいなんです。

ラグビースクールには、1つ上の兄が5年になった時に「行ってもいいかな」という感じで行き始めました。兄弟でだいたいやることが一緒だったので、兄と一緒に僕も無理やり連れて行かされました。小学校の頃はトライしたりしてましたが、楽しくてしょうがないって感じはありませんでした。スクラムハーフやスタンドオフとかをやっていて、割とキックも得意でした。

中学は私立の西南学院中学校へ行って、ラグビー部はなかったんですが、中高一貫の高校にはラグビー部があることを知っていました。それで中学の時もクラブチームに入って、週末はクラブでラグビーをやって、西南では平日に高校生と一緒に出来たらいいな、と思って入ったんです。

そうしたらちょうどたまたまそれぞれクラブチームでやっている同級生が5人ぐらい同じ中学校に入って、「じゃあラグビー部創るか」となったんです。平日は西南中学でラグビーをやって、土日はそれぞれクラブチームでラグビーをやることになりました。

ラグビー経験がない同級生も何人か入れて、中1~2ぐらいまでは他校との合同で大会に出ていたんですが、中3の時は単独チームで西南中学として出ました。福岡ではクラブチームは強いんですが、中学校のチームはそんなに強くなかったです。僕らのチームにはクラブチーム出身の子が5〜6人いたので、福岡で出た大会には全部優勝しました。

この頃から凄くラグビーが楽しくてしょうがなくなりました。練習は高校生と一緒にやっていたんですが、サインプレーとかを自分たちで考えたり試合をしたりして、ラグビーに凄くハマリました。中2~3ぐらいから身長も伸び始めて、足が速くなってきて、ラグビーに完全にハマったなという感じでした。

中学ではキャプテンをやっていました。中3最後の中体連の九州大会に繋がっているという大会で、1回戦で負けてしまったんです。それまでの他の大会は練習試合を含めて全部勝っていたので、慢心していたんですね。でも凄く仲のいい友だちがいて、ずっと練習して、毎日ラグビー漬けになって、中学時代は本当に楽しかったです。

『ラグビーが楽しくて仕方がない』

西南高校は1回戦負けするようなチームだったので、高校へ行く時、他の高校へ行こうかなと思ったんです。スクールの選抜の子も他の高校へ行っていましたし、今も九電でラグビーをやっている兄も他の高校でした。でも兄から「本当に他の高校へ行くというのでいいのか?他の仲間もいるし」と言われて、僕もちょっと考えて、「西南でやって行こう」とそのまま高校へ上がりました。現実は甘くなく、高1では1回戦で負けましたが、だんだん上がっていって、高3の時は結構強くなりました。

少し脱線しますが、兄は父と同じでセンターをやっていたんですが高校から筑波大学へ進みました。一浪したので同じ学年になって、大学時代にお互いに出場して対戦したことが2度ありますが、どちらも負けました。1対1の場面があって、外に勝負して、完全に読まれていてバッツリ入られました(笑)。逆はなかったですね。

ラグビーをずっとやると決めたのは、中3ぐらいでした。選抜というのがあるということを全く知らなかったんですが、福岡選抜に入りました。普通の県だったら高校では上位何チームからしか選ばないシステムなんですが、福岡は育成システムを先生たちが作って、選抜の練習会に呼んでくれたんです。その後に高校代表に入れました。

中学、高校と、ラグビーが楽しくて、毎日ラグビーのことしか考えていませんでした。ラグビーに熱中し過ぎていました。仲間と一緒に試合で勝ったりすることが楽しくて仕方なかったです。大学は勉強しなければ入れないので、どうなるんだろうなと思いながら、定期試験とかはちゃんとやっていましたが、とりあえずラグビーを100%やっていたらトントンと進んで行くことができました。

西南高校に入って、代表に入れるとはまったく思っていなかったので、なりたいとは思っていました。ラグビー関連の雑誌に「高校代表までは死ぬほど練習したらなれる」ということが書いてあって、努力できる時間はだいたい全部努力していたら、本当にそこまで行けました。道が開けたなぁと。

僕には「一緒にやってくれる同期がいた」ということが大きかったと思います。足が速くなるために、あるいは試合に勝つために、「こういうふうにしたい」と言って、それを一緒にやってくれました。同期は僕みたいにラグビーで大学へ行ける仲間じゃなくて、普通に勉強もしないといけないのに、厳しい練習をやろうと言って、しっかりやってくれました。僕だけラグビーで大学へも入ったんですが、同期は浪人して入ったりしまして、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

個人でトレーニングする習慣は中高でついたかなと思います。全体練習以外で、周りと差をつけるために個で練習をする習慣は、中学からありました。高校では花園を思いっきり目指していました。ここまでラグビーをやって、父親も母親も信じられないと思います。父親は熱心にラグビーを教えたりとかしませんでしたから、それが本当に良かったんじゃないかと思っています。

ラグビーでは結果が出なかったら、「あれだけやったのに」じゃなくて、「自分のやっていることが足りなかったんだな」と素直に思います。ラグビーをやめたいと思ったことはないですし、本当に好きでしたし、それは今でも同じです。

一覧へ