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サンゴリアスをもっと楽しむコラム

2015年11月19日

「少年サンゴリアス」Vol.51 大島佐利『泣き虫』

「少年サンゴリアス」Vol.51 大島佐利『泣き虫』
 
子どもの頃はメチャクチャ泣き虫でした。姉が3人いて、末っ子長男の僕なんですが、母親からしてみたら姉ばっかりの中に男1人なので、絶対に甘えん坊になるなと思っていたみたいです。ですので母親がいちばん厳しく育てたのが、僕だったと思います。習い事をたくさんやっていて、外に出て何かしているということが多い子どもでした。父親は自営業で、材木を売る仕事をやっていて、普段は優しかったんですが、母親と一緒で、いざとなると厳しかったです。姉たちはいま考えれば優しかったのかなと思いますし、当時、ずっとお姉ちゃんに着いて歩いたりしていました。
 

外に出て、毎日のように野球をやったり、空手、水泳、少年合唱団、習字、そして塾も行ってました。姉がやっていたものが多かったと思います。合唱は、ホントにやってたのかな?という程で、得意ではありません(笑)。もともと体を動かすことは好きだったので、スポーツは得意でした。子どもの頃はアニメが見たかったり、みんなと遊びたいなという気持ちがあったので、正直、野球以外はイヤイヤ通っているような感じでした。野球は高校1年生まで、ずっとやっていました。いろいろなポジションをやりましたが、メインはピッチャーでした。でも野球の才能はそんなになかったんです。

 
國學院栃木高校にも自分はピッチャーで、3年にはエースで甲子園、というつもりで入ったんですが、入って早々に「この世の中には野球で凄い奴がいるのか」と思いました。それでも頑張ってやっていこう、という思いもあって1年間野球部に所属しました。一方で姉の担任だったラグビー部の監督が、姉から僕の話をいろいろ聞いていたみたいで、「野球じゃなくてラグビーをやってみないか」という話を、まだ中学生の時からずっと頂いていたんです。最後はそういった方の熱意に「じゃあやってみようかな」ということで始めました。身長は大きい方ではありましたが、当時は細かったですね。でも今では考えられないぐらい(笑)足は速かったというか、子どもの頃から足には自信がありました。
 

泣き虫だったので人に当たるのも嫌だし、タックルされるのなんてもっと嫌だし(笑)、という感じだったんですが、チームメートや監督に檄を飛ばされ、頑張って、何とかラグビーをやっていました。泣くのだけは恥ずかしいという気持ちもあって、何とか泣かないで頑張ってやっていました。足が速かったというのもあって、監督はウイングで使ってくれました。そして高校2年生の時の花園で、その年に準優勝した天理高校と試合をしました。啓希さん(宮本)が3年でフルバックで出ていましたが、その天理にやられた時に、悔しさと、自分も試合に出ていて「これじゃダメなんだな」ということを凄く感じたんです。

 
なぜ僕らが負けたかと言えば、タックル出来なかったり、ボールを持ち込んでもみんなの当たりが弱くてすぐにボールを取られたりとかでした。ボロ負けして(5-43)、啓希さんにも抜かれた思い出があります(笑)。そういう中で、ラグビーをやるからには、「ここは逃げちゃ行けない部分なんだな」ということを、自分自身感じたのを覚えています。3年生になって、僕らの代はフォワードの体が大きかったというのもあって、体を当てる部分で負けないようなチームを作って行きました。僕もウイングとかセンターでしたが、体を張れるようにウエイトトレーニングを頑張りました。それがあったから、今こうやってトップでできているのかなと思います。

 
負けた時、自分が上手く出来なかった時、なぜだろうなと考えると、体を張る部分が出来ていなかったかなと、今でも思います。「体を張ってボールを前に持って行くこと」が、高校、大学、社会人とずっと変わらず、僕の一番の役目だと思ってやり続けています。

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