2013年2月11日
「少年サンゴリアス」Vol.42 小野澤宏時『学生の本分は勉強』
「少年サンゴリアス◆小野澤 宏時◆学生の本分は勉強」
僕の家庭では、母親が何でも決めるタイプでした。出身は凄く田舎なんですが、僕の姉が私立の中高一貫校を受験して入学して、2年後に僕の番だったので、「お姉ちゃんも行っているんだから、あんたも行きなさい」と決められてしまいました。受験勉強もしなさい、これもしなさい、あれもしなさい、で全部決められていて、戦っても母親には勝てないので、自由な意思はまったくありませんでした。
「僕はこれをやりたいんだけど」「僕はこのおもちゃが欲しいんだけど」と言うと、「それは何?」「学校に必要あるの?」「学生の本分は勉強です」って言われました。「あぁ、そうだなぁ」と言って終わりです(笑)。クリスマスもありません。「何でないの?」「うちはキリスト教じゃないから、そういうイベントはないのよ」「そうか」。だからサンタは来ないので、僕は毎年クリスマスに寂しくなっていました。
クリスマス時期の新聞には、おもちゃ屋の折り込みチラシが入ってきて、一応、そのチラシに掲載されている合体するロボットのおもちゃなどに丸をつけるんですが、それでもクリスマスプレゼントは来ませんでした。1回も来たことはありません。誕生日にはケーキを作ってくれましたが、おもちゃはないし、お正月のお年玉ですら図書券や文具券でした。だから母親に全部決められていて、相談しても、「それは必要ない」「それはお母さん嫌いだからダメ」という感じでした。「お母さんの耳は日曜日」なんて言うこともありました。お休みで聞こえないって意味です。そうすると、10歳を超えた辺りで、もう家では相談しなくなります。「お母さんに何かお願いしても、無理だな」と諦めていました。
当時はサッカーが流行っていて、『キャプテン翼』を見たりして、家が静岡だったのでサッカーは爆発的な人気で、みんなサッカー少年になっていましたが、「いやいや、お母さん、もうサッカー好きじゃないから」「そうか、そうだよね」ということで、話は終わっていました。だから何かを楽しむなんてことは、まったく僕の中にはなくて、「早く大人になりたいな」とずっと思っていました。「早く大人になって家から出て、自分の力で稼いだお金で自分の好きなように使いたい」という欲求しかありませんでした。
ラグビーは父親がやっていたことと、選択権なく入った中高一貫の聖光学院は県に2校しかないラグビー部がある学校だったので、それがきっかけでラグビーを始めました。サッカーをやらせてもらえなかったので、独裁政権下でのラグビーには“やらされ感”しかありませんでした。それで、たまたま元日本代表で元サントリーの葛西さん(祥文)がラグビー部の監督になって、「自分たちで作り上げていって、自分たちで練習して、自分たちでプレーするのは楽しいだろ」ということを、さんざん教えてくれました。最初はやらされていたラグビーでしたが、葛西さんの教えによってラグビーの面白さに目覚め、それまでのやらされている状態から脱却した訳です。
結局、ようやく母親の独裁から本当に自由になったのは、働き始めてからです。「自分の欲しいものが自分の労働の対価で買える」ということが、楽しくて仕方ありませんでした。最高でした(笑)。いま思えば幼少期から、母親には「人に期待することなく自己完結する人生」という種をまかれていたとも思います。母親に関しては、もう「しょうがない」と言うしかありません。
(構成:針谷和昌)