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サンゴリアスをもっと楽しむコラム

2013年1月28日

「少年サンゴリアス」Vol.40 成田秀悦『父と勝負する日』

「少年サンゴリアス◆成田 秀悦◆父と勝負する日」
 
  他の家のことは分かりませんが、僕の家は“スポーツ家族”だったと思います。家族のみんながスポーツ好きで、親に「勉強しろ」と言われた記憶はありませんが、「運動会で1番を取れ」と言われたことは覚えています。僕の住んでいた地域では、「勉強が出来る奴より、運動できる奴が良い」という雰囲気がありました。
 
父はバレーボール、野球、綱引きなどをやっていました。母はバレーボール。弟は僕と一緒でラグビーです。僕は秋田出身で、ラグビーが盛んな地域だったので、Jリーグが始まった頃に、僕はラグビーを始めました。僕が「サッカーがやりたい」と言って、親に連れて行かれたところがラグビー少年団で、しかもそれをラグビーと僕が認識するまでに、2年ぐらいかかりました(笑)。
 
それがサッカーだと思っていたというよりは、友達といて楽しいという感覚でやっていたので、何の種目をやっているかということはあまり気にしていませんでした。小学校1~2年の時です。僕が入ったラグビー少年団は、人数が多くて試合には全然出られませんでした。試合もしていないので、「これがサッカーなのか?ラグビーなのか?」という感覚で、何の種目をやっているのかを認識せずにやっていた記憶があります。そして小学校3年の時に、「あ、これはサッカーじゃなくて、ラグビーだ」とハッキリと認識しました。
 
「運動会で1番を取れ」と言われていたんですが、僕より速い同学年の子がいて、“万年2位”だったので、運動会前になると父親との特訓が始まるんです。坂道を走ってタイムを計ったり、砂浜を走っていました。更に普段履いていた靴の中には重りが入っていました。それでも小学校の時はずっと2位でした。1、2年の時には足が遅くて、それが悔しくて父親に「足が速くなる方法を教えて」と頼んだんですが、当時は靴の中に重りが入っていたことには気づきませんでした。

 
お爺ちゃんは野球が大好きで、巨人が優勝したらお寿司を頼んでいました。それぐらい巨人が好きで、お爺ちゃんは僕を野球選手にさせたかったみたいです。ボールの握り方やカーブの投げ方、バットの振り方など、全部教えてくれました。小学校3年生になると野球をすることも選択肢にあったんですが、ラグビーは仲間が多くて面白かったので、野球は選びませんでした。それからお爺ちゃんは1回も僕のラグビーの試合を見に来ませんでした。僕の頑張りは聞いていたと思います。高校2年生の時、国体に出場して賞をもらい、お爺ちゃんが亡くなる間際に、その賞を見せたら、「頑張ったな」と言って初めて笑って言ってくれました。
 
運動会であれだけ練習しても、どうしても1位が取れなかったので、それ以来負けず嫌いになったんだと思います。「1位になりたい、1位になりたい」という気持ちで、これまでずっとやってきているのかもしれません。小さい頃、足がダントツに速いラグビーのコーチがいた町内の運動会で、父親は100m走でそのコーチに圧倒的な差で勝っちゃったんです。その姿を見ていたので尊敬もしていましたし、「いつかああいう風になりたい」と思って、アドバイスにも文句を言わず受け入れて続けていました。
 
走る事に関してずっと二人三脚でやってきた父親とは、小学校の時から年に1回だけ、父親と勝負する日がありました。電柱2本分で50mくらいの距離だったと思います。小学校から中学校までやって、中学校でも全然勝てませんでした。高校に入ってからは「高校生にもなって負けたら嫌だ」と思って、僕がずっと避けていました。
 
大学生になって帰省した時に、「勝負しようか」と父親に言われたので、「やろう」と言って、母親がスタートの掛け声をやるため、3人で外に出て勝負をしました。実際は「ヨーイ、ドン」の掛け声を父親が言ったので、スタート直後は父親にリードを許しましたが、そのあと追い上げて圧倒的に勝ちました。父親は負けたことことにショックを受けていて、それからは勝負をしようと言わなくなりました。
 
もともとはのんびりした性格だったんですが、子供の頃に「運動会で1番を取れ」と言われて、負けず嫌い精神が培われました。そのおかげで、得意分野で1番を取りたいという気持ちになり、途中で諦めることなく、ここまで来ることが出来たんだと思います。やっぱり苦手なことを克服することよりも好きな分野を伸ばしていくことの方が、長く続けられると思います。僕もラグビーを楽しんでここまで続けられたので、いまラグビーをやっている子供たちにもラグビーを楽しんで続けてほしいと思います。

 
 
 
(構成:針谷和昌)

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