2013年1月14日
「少年サンゴリアス」 Vol.38 有賀剛 『自分の番が回ってくるとスーッと後ろに』
「少年サンゴリアス◆有賀 剛◆自分の番が回ってくるとスーッと後ろに」
幼稚園の時は運動ばっかりしていて、粘土の時間とかお絵描きの時間とかに、粘土も絵もやらなくて、外に出て1人で雲梯(うんてい)をしていたんです。そういう普通じゃない感じだったんです(笑)。その時から負けず嫌いで、友達と競っていたんですが、承認者となる先生を呼んで、「今から新記録に挑戦するから見て」という感じで、ひたすら雲梯をしていました。そういう子だったみたいです。
2歳半からは水泳をやっていました。お姉ちゃん2人がスイミングスクールに入っていたんですが、僕はお風呂場で水でも怖がっていたらしいんです。頭を洗うというのをすごく嫌がっていたりして、そういうこともあってスイミングスクールに母親が入れたそうです。
最初の頃のことは覚えていませんが、選手コースのコーチが身体がすごく大きくておっかなかったです。プロレスラーみたいな感じですね。その人と3歳ぐらいの時に初めて会ったのがトイレで、そのコーチがトイレに入って来て、大泣きしちゃったというのが最初の記憶です。「あっ、すごい人が入って来た」ってビックリして、怖くて、泣いて、トイレを出て行っちゃったんです。これは家族の思い出話でも、スイミングスクールの昔話でも、よく出てくる話です。
今の自分とは違って、小さい頃は結構いろいろなことに消極的でした。スタートの飛び込みの練習をやっている時に7~8人並んでいて、そろそろ自分の番が回ってくるなという時に、スーッとまたいちばん後ろに並ぶんです。それを親がずっと見ていて、後で怒られる、そういう子供でした。水泳は面白いっていう感覚はなくて、でも辞められなくなってしまって、高校でラグビーをやるまではとりあえず続けていたという感じでした。
選手コースには小学校4年生で入りました。その頃、1日2時間、週6日泳いでいました。月曜だけが休みでした。もちろん学校はあるし、水泳の他にピアノも習っていて英語も通っていたり、中学生ぐらいになると、陸上でも県の大会に出たりしていたので陸上の練習もあって、クラブはバスケット部に入っていました。ラグビーもやっていたし、スポーツに関してはいろいろやっていましたね。
結局、何がやりたいかというのがハッキリしていなかったので、水泳を続けていたんだと思います。今になってみれば、水泳は全身運動なので、水泳のおかげで体が強くなりましたし、レースも何百回も出たので、そこへ向かっていく気持ちの強さは水泳で培ったものがいっぱいあると思います。継続は力なりと言いますが、続けておけばそれが何かに活きることがあるのではないでしょうか。
水泳では県(山梨)ではNo.1でしたが、全国へ行ったら決勝にも残れないぐらいでしたから、自分でも「この世界ではなかなか厳しい」と思い始めましたし、ラグビーへ行こうかなという気持ちが出て来ました。それしか選択肢がなかったとも言えます。見切りをつけました。自分で厳しいなと思ったら、違うスポーツをやっていくのもひとつあると思います。見切るには、全国大会とかに出れば分かりますよね。県内の小さな世界だと自分が一番だと勘違いしやすいですが、全国へ行ったら凄い人はいっぱいいます。そういうところで厳しいかなと感じました。基本的に球技の方が好きだというのもありましたね。
ラグビーは親父の影響です。親父(健/元ラグビー日本代表)がいたのでラグビースクールにも知らない間に入れられていました。6歳ぐらいからだったと思います。ラグビースクールは月に2回ぐらいしかなかったので、かじっている程度、あとは花園に高校ラグビーを見に行くぐらいでした。でもラグビーは最初から面白かったです。
(構成:針谷和昌)