2012年12月10日
「少年サンゴリアス」 Vol.33 青木佑輔 『泣き虫』
「少年サンゴリアス◆青木佑輔◆泣き虫」
泣き虫でしたね。少年の頃はすごく太っていて泣き虫でした。泣けば許してもらえると思っていたんじゃないでしょうか(笑)。友達と言い争いになってもすぐに泣いていました。弱かったですね、気持ちが弱い子供でした。
僕には姉と妹がいます。女姉妹の真ん中で育ったので、男の子としては優しいというか、弱い部分があったのかもしれないです。それで親はラグビーをやらせたかったそうですが、おそらく気持ちが弱いからラグビーをさせたのだと思います。覚えていないのですが、ラグビーも最初はやりたくなかったそうで、泣いて嫌がっていたそうです。小2か小3ぐらいから始めました。小学校中学年ぐらいまではいつも泣いていたと思います。
姉や妹は母が料理しているのを手伝いたがるんですが、姉と妹に挟まれて、自分も小さい頃からリンゴの皮むきとか、料理を手伝うのが好きでした。今ではそれが活きていて自分でも料理をしています。ですが、「スポーツ選手が自分で料理をすると食べたいものしか食べないので、良くない」と新田コーチに言われています。
体は中学校ぐらいで絞まってきたんですが、柔道を始めたからだと思います。スクールでラグビーもやっていましたが、学校でやっていた柔道がメインでした。中学校の柔道部には上下関係があって、それが面倒臭かったんですが、「ニコニコしていれば許される」とその時は思っていました(笑)。
あまり争い事はしたくない性格でしたね。負けず嫌いなんで、「争い事はしたくない」と思っていました。負けたくないので、なるべく人より多く練習しようと思ってやっていました。高校に入ってラグビーをやっている時もそう思ってやっていました。
中学の時はあまりラグビーをやっていなかったので、高校に入った時はラグビー部の中では素人みたいな感じでした。チーム(國學院久我山)が強くて、推薦組にラグビー経験者が多くて、中学時代にオール東京などの地区の代表チームに入っていた人達が多かったので、自分も推薦だったんですが、周りの人たちは凄かったです。その彼らに負けたくなかったんですね。
家族旅行にもよく行きました。静岡にお婆ちゃんの家があって、そこへ家族でよく行っていました。海へ行ったり山へ行ったり川へ行ったり。そのお婆ちゃんの家に囲炉裏があるので、そこでご飯を食べたことをよく覚えています。夏の静岡の花火大会の時期に合わせて行くんです。お正月もずっとそこに居ました。
千葉にもお婆ちゃんが関係する家があって、そこではタケノコ掘りが出来ました。そこにも年に1回は行っていました。タケノコを掘って、それだけじゃなく、竹そのものを切っていました。竹を切ってあげないともの凄い量になってしまい、次の年にタケノコがあまり生えなくなったりするので、増えてしまった竹をいつも切っていました。あまり低く切るとつまづいてしまうので、立って見えるぐらいの高さで切るように教えてもらいました。
僕はお婆ちゃん子でしたね。静岡の家でもお婆ちゃんと一緒に、いつも庭いじりをしたりしていました。お婆ちゃんの手伝いばかりしていました。高校でラグビーを始めてからはどちらもあまり行けなくなってしまいましたが、社会人になってまた行けるようになりました。
中2の時にサントリーのラグビー教室に参加しました。府中のサントリーのグラウンドで、慎さん(長谷川/OB/現ヤマハコーチ)とか直人さん(中村/OB)がいました。サインボールもあります。小ちゃい時からサントリーが好きだったんです。社会人ではやらないなと思っていたんですが、やるなら好きだったサントリーでという感じでした。サントリーには大きいお兄さんとかに教えてもらったりして、選手がキックしたボールをキャッチ出来ると景品をもらえたりするのが嬉しかったんです。サントリーには夢をもらったと思っています。
(構成:針谷和昌)