先駆者たちの物語The Suntory Family
A story of
pioneers
〜ジャパニーズウイスキーの創業家一族は、人間の生命(いのち)の輝きをめざし、どのような社会と文化を創ろうとしてきたのか〜
京都の南西、天王山の麓。地下水系から湧き出す清冽な水の流れは、中世最大歌人の一人、後鳥羽天皇をはじめとして、いにしえより和歌に詠まれ、豊かな情感をかき立ててきた。青々と生い繁る竹林の斜面に、日本で最初の、そして愛され続けてきたモルトウイスキー蒸溜所が姿をあらわす。ゆるやかな丘をのぼり、奥へと踏み入っていく人は、100年前に鳥井信治郎が抱いた遥かな夢の中に入っていくことになる。鳥井信治郎は、ジャパニーズウイスキー産みの親だ。当時、まだウイスキーの味を知らなかった多くの日本人に、ウイスキーのほんとうの美味しさを知ってほしい。自分たちの手で、日本人の味覚に合った本格・本物のウイスキーをつくりたい。そんな見果てぬ夢を抱いた信治郎が、この地で山崎蒸溜所の建設に着手したのは、1923年のことだった。洋酒が日本の市場の1%にも満たなかった時代。それは、誰が見ても無謀な試みだった。
「わしがウイスキーをつくるのは、日本の事業家が誰一人手を出そうとせんからや。」彼は決然としてそう語ったという。
「わしがウイスキーをつくるのは、日本の事業家が誰一人手を出そうとせんからや。」鳥井 信治郎
夢想家でありながら現実的な人間などいるだろうか。彼らは、愚か者の烙印を押されたり、手痛い失敗を冒すリスクがあっても、決してあきらめず、へこたれず、ほかの誰も見ることのできない夢を見つづけることで、偉大なことを成し遂げる人間だ。鳥井信治郎は、まさにそういう男だった。日本人自らの手による国産ウイスキーの市場を創造することができる。かたくなにそう信じていた。彼には、日本酒や焼酎ではない、洋酒に新しい楽しみを求める新しい世代が見えていた。彼にとっても、彼のレガシーを受け継ぐ今日のサントリーにとっても、ウイスキーはただ酔うためのものではなく、飲んで心に豊かさをもたらすものだ。人と人をより近づけ、喜びや感動を生み出す。それがサントリーウイスキーなのだ。
「子どもの頃から、私たちの事業は、常に人々の幸せに関わっていると教えられてきました。」
そう語るのは、信治郎の曾孫で、サントリーホールディングス副社長の一人である鳥井信宏だ。彼は、ウイスキー、ビール、ワイン、清涼飲料、健康食品、さらには文化事業や社会貢献の取り組みに至るまで、グローバルに広がるサントリーの経営権を共有する創業家の一人だ。サントリーと競合他社の違いは何かと問われて、信宏はこう答えた。
「創業家が経営に深く関わることが、大きな違いを生み出しているということに気がつきました。私たちは、他社とは異なる時間感覚をもっています。私たちがマスターブレンダーの家系であること。100年にも及ぶ歳月、ものづくりの先頭に立ってきたこと。それが、サントリーをサントリーたらしめているのです。」
「真の成功のためには失敗を避けて通れません。成功につながる学びを得るのは、失敗したときなのです。」鳥井 信宏
《山崎》や《白州》のようなトラディショナルなシングルモルトから、サントリーウイスキーの礎をつくり、時代を超えていまでもベストセラーとして確固たる地位を築いている《角瓶》、さらには、海外でもブレンデッドウイスキーの地位を変えた《響》まで。サントリーはジャパニーズウイスキーの代名詞となり、繊細で複雑、洗練された香味で世界中の愛好家を魅了することで知られている。
いまとなっては想像できない。わずか100年前まで、ジャパニーズウイスキーなど存在しなかったということも。信治郎がジャパニーズウイスキーを世に出すまでに、何度となく失敗を重ねなければならなかったことも。
「成功するのは簡単なことではありません」と、信宏は言う。「なぜなら、真の成功のためには失敗を避けて通れません。成功につながる学びを得るのは、失敗したときなのです。」
1923年から100年を超えるジャパニーズウイスキー探求の旅は、試行錯誤の連続だった。信治郎から敬三、そして信吾へ。そこには、困難に挑み、ジャパニーズウイスキーの道を切り拓いてきた家族の物語がある。
常識を変える創造を生んだ。
「信治郎は、おいしいウイスキーはスコットランドでしか作れない、という定説を受け入れることができなかった。」
1899年、大阪に小さな商店を開いたとき、鳥井信治郎には楽観的な考えしかなかった。わずか20歳で無一文に等しいにもかかわらず、明治時代の日本の進路を決定づけた「文明開化」をどこまでも追い求めることに情熱を注いでいた。信治郎はヨーロッパの葡萄酒を店頭に並べたが、ボトルには埃が積もるばかりだった。日本人はまだ外国産の酒の味に慣れていなかったのだ。この苦い経験により信治郎は蓄えを失う一方、日本人の嗜好に合う独自の味わいをつくってみせる、という決意を強く持つことになる。
彼は在庫を無駄にしないように、過去の経験を活かすことにした。10代の頃、信治郎は大阪の薬問屋、小西儀助商店に丁稚奉公に出ていた。その店では、薬以外にも質の高い外国産の酒を輸入していた。彼はそこでブレンドの魅力に取りつかれ、10代の大半を技術の習得に費やし、ひたすら嗅覚と味覚を磨いた。1907年、信治郎はついに甘味葡萄酒《赤玉ポートワイン》を誕生させた。その名は、すべての生命の源である真っ赤な太陽に由来し、のちにサントリーという現在の会社名 (Sun 太陽と Torii 鳥井を合わせた造語)を生み出す起源となった。この《赤玉ポートワイン》は信治郎の最初の大ヒットとなった。100年たったいまでも愛され続けている現役商品だ。鳥井信治郎は、「大阪の鼻」の異名で知られるようになった。
「偉大な曾祖父は香味を創り出すのが得意だったのです。ブレンディングの技術は天賦の才でした。」と、信宏は言う。
《赤玉》が成功したにもかかわらず、信治郎は国産の本格ウイスキーを生み出すことに執心した。当時、ウイスキーはスコットランドでしかつくれないと信じられていた。しかし信治郎はそんな常識や先入観にとらわれず、家族や仲間の忠告も無視して、会社の資本を山崎蒸溜所に賭けた。
「自分の仕事が大きくなるか小さいままで終わるか、やってみんことにはわかりまへんやろ。」
この信治郎の信念が、100年後のいまもサントリーの価値観「やってみなはれ」として受け継がれている。失敗を恐れず、失敗を学びのチャンスと捉え、成功の可能性をあきらめないサントリーならではの姿勢の源である。
このものづくりへのこだわりが、サントリーの職人技を極める企業としての名声を高めた。
信治郎は、夢を実現する聖地として、宇治川、木津川、桂川という三川の合流地点である山崎の地に目をつけた。一年を通じて湿潤で、ウイスキーの熟成にはうってつけの気候だった。古くから名水の地として知られ、蒸溜所近くの神社に渾々と湧く水はいまも地元の人々を潤している。この天王山山系の地下水は、ウイスキーの仕込みに最適だった。山崎は日本初のモルトウイスキー蒸溜所として、信治郎にまたとない機会をもたらした。ウイスキーの製造工程を整え、水や原料の品質を確保し、ジャパニーズウイスキーが当時の日本社会にどのように受容されるかを最終的に決定づける香味を創り出すことができたのだ。鳥井信治郎が遺したものづくりの教訓は、100年たったいまも、何よりも現場を優先し、権威よりも知恵を、外観よりも本質を重んじる姿勢として受け継がれている。だが信治郎は、またしても失敗を乗り越えなければならなかった。
ワイン事業に最初の一歩を記した時と同じように、国産初の本格ウイスキー《白札》はうまくいかなかった。当時の日本人にはピートの香りが強すぎて焦げくさいものにしか感じられなかったのだ。それでも信治郎はあきらめることなく、部屋に籠もって試行錯誤を重ねた。努力を惜しまずものづくりに打ち込む彼の姿勢は、蒸溜所開設からウイスキー製造への先行投資に答えを出すだけでなく、その後数十年にわたって、ものづくりの技へのこだわりというサントリーの気風や情熱を浸透させていった。自分の嗅覚と味覚を頼りに、信治郎は取り憑かれたように、新しい製造工程や新しいブレンドを試した。真夜中に起きて、いつも枕元に置いていた懐中電灯の光で、思いついたアイデアを書き留めることもよくあった。蒸溜所で寝起きすることもしばしばだった。
そして1937年、山崎蒸溜所創設から14年後、信治郎はついに成功の味を知る。彼が開発したブレンデッドウイスキーは、スコッチをそのまま再現しようとした《白札》とは異なり、日本らしさを誇り高く前面に押し出した商品となった。製造からネーミング、ボトルデザインに至るまで、日本の豊かな自然と職人技を駆使してつくり上げられ、日本人の繊細な嗜好によく合う香味で評判を呼んだ。信治郎は《白札》もこの新製品も《サントリーウ井スキー》と名づけたが、のちに、その角ばったボトルの形状から《角瓶》というニックネームで人々から愛されるようになる。それはまさに、サントリーファミリーの現在に至る探究の始まりだった。彼らは恵みを生み出す自然の営みに深い敬意を払いながら、ウイスキーづくりの過程で常により豊かで複雑な特質を引き出すことを追い求め続けることになる。
「わしは今日まで裸一貫で会社を築き上げてきたんや。神仏や世間のために裸になるなら、もともとだっしゃろ。」鳥井 信治郎
「私たちのものづくりは、自然の恵みをより引き立てるためにあります」と、鳥井信宏は語る。そして、山崎蒸溜所を「とても、とても、神聖な場所」だと言う。「創業者の最大の才能は、自然界が秘めた香味を解き放つこと、つまり、水や穀物や森の樹々の中に潜んでいる味を引き出し、増幅する能力でした。」
サントリーではしばしば、このプロセスを「美味の探究」と表現する。「美味」とは、ざっくり言えば「良い香味」のことだが、より深遠な何かを意味している。「『美味』とは、香り、口当たり、のどごし、余韻など、人が美味しいと感じるすべての感覚を理解して、かたちにしたもののことです。」と、鳥井信宏は言う。「それは、素材の美味しさを最大限に引き出さなければ、到達できない境地なのです。」
ウイスキーづくりが成功するととともに、信治郎の社会貢献事業への情熱も高まっていった。職人として独立した最も初期の頃から、彼は商売で得た利益を人々に還元する寛容さで知られていた。その熱心さはしばしば財務担当者の反対を招いたが、彼はそれを押し切って実行した。《角瓶》が市場に出回る20年近く前の1921年、無料で診察し、無料で薬をくばる診療院「今宮診療院」を開設。社会奉仕への強い信念のもと生活困窮者の救済を行った。これは100年経った今日までもサントリーグループの社会福祉活動を担う「邦寿会」として続いている。サントリーが経営的に苦境に立たされた時でさえ、彼は社会に恩返しすることを貫いた。
「わしは今日まで裸一貫で会社を築き上げてきたんや。神仏や世間のために裸になるなら、もともとだっしゃろ。」と、信治郎は言った。
文化になった。
先駆者なら誰もが知っている。何かを開拓し、創造しようという心には終わりがないということを。1961年、信治郎は息子の佐治敬三にバトンを渡した。サントリーは、大阪帝国大学理学部化学科卒の化学者の手に委ねられた。「敬三は、科学的でした。」と、鳥井信宏は言う。「一方で、信治郎はある意味、とてもスピリチュアルでした。でも、二人とも夢想家であったことに変わりはありません。遥かな夢を追って、あきらめることを知らない夢想家だったのです。」
ジャパニーズウイスキーを生み出したのは信治郎だが、それを文化にまで高め、育てたのは、間違いなく敬三だった。彼は、日本人が強い酒を好まないことを理解していた。そこで、ウイスキーと和食のペアリングを提案したり、食事シーンに合わせて「ストレート」、「水割り」、「ハイボール」というウイスキーの様々な楽しみ方を紹介した。それはまさに革命だった。彼は製品を通じて人と人をつなぐ「生活文化」を創造し、広げていったのだ。敬三は、ジャパニーズウイスキーが日本文化に溶け込み、そこにあることが当たり前になってこそ、本物のウイスキーだと考えたのである。
敬三のリーダーシップのもとで、サントリーは挑戦を続ける。彼は、1972年にグレーンウイスキーの知多蒸溜所を、1973年には豊かな森に囲まれ“森の蒸溜所”とも呼ばれる白州蒸溜所を創設した。生産能力が増強され、原酒に多様性が生まれたことで、敬三はサントリーの二代目マスターブレンダーとして革新的なウイスキーを生み出す余裕を得た。
1984年に、山崎蒸溜所初のピュアモルトウイスキー《山崎》で新境地を開拓。1989年には、ジャパニーズブレンドの傑作である《響》を世に送り出し、続けて1994年には、新緑の香りとほのかなスモーキーフレーバーが溶け合った《白州》を、サントリーの作品集に加えた。
「へこたれず、あきらめず、しつこく、失敗を恐れることなく、新しい価値創造に挑む」佐治 敬三
このようなサントリーウイスキーへの貢献はもちろん、敬三はサントリーのビール事業の先駆者としても広く知られている。1950年代、大手ビール会社による寡占状態にあった日本のビール業界は、似たような味の商品が並び個性に乏しかった。そんな業界に新しい風を吹き込みたいと考えた敬三は、父信治郎に熱い思いを打ち明ける。長年にわたりウイスキーで夢を追い求めてきた信治郎は、「やってみなはれ」と敬三の挑戦を後押しした。信治郎から伝えられた、この「やってみなはれ」精神とは、「へこたれず、あきらめず、しつこく、失敗を恐れることなく、新しい価値創造に挑む」こと。サントリーの大切な価値観として、いまも社員一人一人の中に息づいている。
ルネサンス的教養人だった佐治敬三は、自ら俳人や写真家として活動する一方、様々なアートの後援者としても知られていた。そもそも、ウイスキーは生活文化の領域で「人間の生命(いのち)の輝き」を提供するものと直感的に認識していた。敬三は、事業で得た利益をお客様と社会に還元する父信治郎の献身的な取り組みを、さらに発展させていく。
1961年には、サントリー美術館を開館。現在では、国宝を始めとする3000点以上の作品を収蔵しており、年間約30万人が訪れる。彼はまた、サントリーホールの創設者であり、初代館長でもある。1986年創設のサントリーホールは、ステージを四方から囲む“ヴィンヤード”方式のクラシック専用ホールとして「世界一の響き」をめざした。いまや世界中の最も著名なオーケストラや演奏家からも、音楽ファンからも愛され、日本のクラシックの裾野を広げるリーディングホールとなっている。その後、敬三はサントリー芸術財団を設立し、芸術文化の発展・振興、次世代の芸術家育成にも努めている。また、「鳥の現在は、人類の未来」をコンセプトに、1973年には環境のバロメーターである野鳥が安心して住める環境を守るために、白州蒸溜所内にバードサンクチュアリを設けるなど、「愛鳥活動」をスタート。人と自然が豊かに響きあう社会づくりに積極的に取り組んだ。
これらの文化事業や社会貢献活動は、創業者鳥井信治郎の信条であった「利益三分主義」に基づく。事業によって得た利益は、事業への再投資、お得意先・お取引先へのサービスにとどまらず、社会にも還元すること。商いは世間様のおかげで成り立っている。だから利益をお返しするのは当然、という信治郎のゆるがぬ信念だった。敬三はその精神を受け継いだ。企業は単に製品をつくり売るだけの存在ではない。社会に何が提供できるかを真摯に考えていた。生産目標や数値だけを追いかけるのではなく、社会の質を向上させるために、製品を通じて生活に潤いや彩りを提供すべきだと。文化事業や社会貢献の取り組みは、その後、健康食品や花事業など新規事業につながっていく。サステナビリティという言葉がなかった時代から、社会の持続的な発展に取り組んできた。それがサントリーという企業の原点なのだ。この背景には、敬三が幼少期より信治郎から受け継いだ「真善美」の精神が関係する。「真善美」とはギリシャ哲学を起源としており、「真」とは本物であること。「善」とは、道徳的に正しいこと。「美」とは、視覚的なものにとどまらず、感覚的な美を指している。彼はこの精神にもとづき、“本質・本物”を追求し、製品に留まらず、生活文化の創造を牽引していったのである。
世界中を驚かせた。
鳥井信吾は、サントリーウイスキーを世界のステージに引き上げようと苦悶してきた一人である。佐治敬三の長男であり、2001年より四代目社長であった佐治信忠からサントリーウイスキーの品質向上の命を受け、マスターブレンダーに就任した。彼は、香味追求への妥協しない姿勢とゆるぎない献身で、サントリーウイスキーを世界的な賞を獲得するレベルへと高めた。信吾はめったに満足しない。物事を正しく行うことに徹底的なこだわりを持ち続け、途中であきらめることを知らない。
「これで十分だと思っても、まだ先がある」と考える。彼は、サントリーウイスキーの品質を日々向上させるために休むことなく身を捧げ、いつか世界に認められるウイスキーをつくりたいと願った祖父の夢に忠実であり続けている。
信吾は、サントリーウイスキーの現在と未来の世代を確かな絆で結ぶために、なくてはならない役割を担っている。信吾は、創業家に受け継がれる「真善美」と共に、商いの心得として引き継がれる「運鈍根」の精神を大事にしている。「運鈍根」とは、成功するためには、「運」があるということ、「鈍」(愚直)であること、「根」気よく続けることという意味である。人に愚かと言われようと、近道をせず、正直ひとすじに真っすぐ進む。信吾は、1987年にウイスキーの販売が低迷しているにも関わらず、コストを削減するのではなく、山崎蒸溜所の大規模な改修を仲間とともに決断する。サントリーの品質基準が、業界のそれを遥かに超えている事実はよく知られている。信吾が、サントリーウイスキーの品質基準・美味品質をどんどん引き上げているのである。サントリーが世界で最も高く評価されるディスティラーのひとつと評価されるのは、彼が追求するものづくりの理想を現実にする職人の技と情熱、ウイスキーづくりの多様性、卓越したブレンディング技術、そして数字や化学式や方程式であらわすことのできない「美味」を追求する姿勢の賜物なのだ。
「信吾は完全主義者であるだけでなく、自然から深くインスピレーションを受けた芸術家でもあります」と、鳥井信宏は愛情を込めて、叔父について語る。「彼は、自然の恩恵を生かすためにあらゆる努力を惜しみません。彼の知識は膨大です。テイスティングの力量もすごいと思います。でも、実は彼はさほど酒を飲まないのです。」
それは、成功を阻害したり、マスターブレンダーとして必須の資質に欠けているかのように聞こえるかもしれないが、信吾の場合は全く逆のようだ。「彼は大酒飲みではないので、とても鋭敏なのです。」と、信宏は言う。
「彼が取り組んだのは、多様な原酒によるつくりわけと、ブレンディングの技術を極めること。そして、原酒の本質的な美味品質を向上させること。だからこそサントリーは、他社に差をつけることができるのです。」
サントリーウイスキーが初めて世界的な評価を受けたのは、信吾の品質へのこだわりと「妥協しない」姿勢があったからだ。2003年、英国で開催されたインターナショナル・スピリッツ・コンペティションで、《山崎12年》が金賞を受賞した。それは、ジャパニーズウイスキーの歴史だけでなく、ウイスキーの歴史そのものを大きく変える出来事として、世界中で大々的に取り上げられた。ついにジャパニーズウイスキーは、すべてのウイスキー愛好家の注目を浴びることになったのだ。以来、サントリーは、ISCのディスティラー・オブ・ザ・イヤーに4度輝き、ジャパニーズウイスキーの名門としてだけでなく、世界屈指のディスティラーとして最も高い評価を受けている。
ものづくりに注ぐサントリーの尽きることのない愛と情熱。鳥井信吾がやることのすべてが、その象徴だ。
彼は、ものづくりと同様に、その背景にあるものがたりをとても大切にしている。2008年に信吾自身の名前で発表した「ものづくりの志」と「ものづくり行動指針」をまとめた「Suntory Monozukuri Value」は、彼の想いを凝縮して伝えるものだ。究極のものがたりは、常に事実に根ざしている。蒸溜所、ワイナリー、生産者のすべてで独自に育んできたものづくりの歴史、製法、つくり手の想い。そして、ものづくりを営む地域の、土地、風土、文化を深く探求・理解し、それらを未来に向けて絶えず磨き進化させ続ける。これにより、独自のものがたりが生まれてくるのだ。
「私たちが伝えたいのは、すべての恵みを生み出してくれる土地と環境に、私たちが深い敬意を払っているということです。」と、サントリー三代目のマスターブレンダーである鳥井信吾は言う。
「自然がなければ、ものづくりもありません。真のものづくりとは、自然に何かを加えることでも、自然から何かを奪うことでもなく、ただ自然の恵みをそのまま高めることなのですから、先は無限に遠い。ウイスキーづくりも、ビールづくりも、ワインづくりもこれで完成ということがない、終わることのない挑戦です。でもそれは、サイエンスも、アートも、会社経営もみな同じでしょう。」「私たちは、自然に頼り委ねることで、賞を獲得するような製品を生み出しています。」と、信吾は言う。
「山崎や白州の水、その豊かな自然環境は、私たち独自のものづくりと同じくらい、いやそれ以上に大切なものです。」
「私たちが伝えたいのは、すべての恵みを生み出してくれる土地と環境に、私たちが深い敬意を払っているということです。」鳥井 信吾
2005年、第四代社長、佐治信忠によってコーポレートメッセージとして定められた言葉「水と生きる」は、サントリーDNAを体現した言葉だ。2023年には、この言葉に込められた想いをグローバル規模で共有するために、「Sustained by nature and water (自然と水の恵みに生かされ/保たれている)」という英文のメッセージも策定した。それは、世界の水資源を守ることをはっきりと約束するだけでなく、「人と自然と響きあい、豊かな生活文化を創造し、『人間の生命(いのち)の輝き』をめざす」というサントリーの目的(パーパス)や大切にしてきた価値観を凝縮して、社会やお客様とコミュニケーションするための言葉となった。
サントリーの次の100年に向けて、信宏はこれ以上ない未来の情景を描いている。「私の夢は、世界中どの国へ行っても、そこにサントリーウイスキーがあること。そして、人々が私たちのウイスキーを楽しんでいる姿を見ることです。」彼は信じている。グローバル規模でサントリーウイスキーが受け入れられるために重要なのは、ビジネス以上に心だと。自然への敬意。ものづくりへのこだわり。ウイスキーファンへの愛。決してあきらめない姿勢。この基本原則に対して責任を果たしていくということ。「常に挑戦し続けなくてはなりません。そうしなければ新しい道は切り拓いていけません。開拓者精神とはそういうものです。」鳥井信宏は、誓うようにそう言った。
1899年の創業以来、鳥井信治郎に始まる「鳥井家」の系譜は、三代に渡るマスターブレンダーの系譜でもある。受け継がれるものづくりへの情熱が、ジャパニーズウイスキーを世界中に知らしめる事につながった。
当コンテンツは、元Wiredの編集長であるScott Daddich氏率いる企業のストーリーテリングを専門に行なうGodfrey & Daddich社とのパートナーシップで制作しました。
Godfrey & Daddich社のエディトリアルチームの責任者であるRobert Capps氏(元Wiredのエディトリアルディレクター)が編集を担当しました。