飛行機の航続距離がいまのように長くなかった時代、空港待合室のパブで生まれたホットカクテルがある。「アイリッシュ・コーヒー」。1943年、アイルランドの西、首都ダブリンからは200km弱の距離に位置する大西洋を望むフォインズ水上飛行場がその舞台だった。
大西洋航路がまだ飛行艇の時代のこと。港町フォインズにある水上飛行場はシャノン川の中洲にあった。給油のために飛行艇から降ろされた乗客はボートに乗り替えて川を渡り、待合室に行くしか方法はなかったようだ。
厳寒の季節、乗客は身体の芯まで冷えきり、震えながら待合室にあるパブへとやってくる。そんな光景を見つづけていたシェフのジョー(ジョセフ)・シェリダンは、乗客ためにと身体が温まるドリンクを考案する。これが「アイリッシュ・コーヒー」である。
熱いコーヒーにアイルランドが誇るウイスキーと酪農国を物語る生クリームという特産品を材料にした、よく考えられた一杯だ。海外への玄関口でのお国自慢としてふさわしくもある。乗客にしてみれば凍えた身体にこの温かいカクテルを浸潤させたならば、まさに至福であろう。
「アイリッシュ・コーヒー」が誕生する3年前の1940年、フォインズ近郊に陸上空港、シャノン空港が開港していた。これは飛行艇時代の終焉を物語っているのだが、シャノン空港でも当然飲まれるようになる。
この辺りはアメリカ東海岸とロンドンを結ぶ航路の大圏コース上に位置し、カナダのガンダー空港(当初ニューファンドランド空港)とともに給油拠点であった。つまりパリやロンドンを飛び立ったとしてもフォインズあるいはシャノン空港で給油し、それからガンダー空港に向かうのだ。もちろん逆のアメリカから飛び立ってもガンダー、シャノンが拠点となった。
ジェット飛行距離が大幅に伸びる1960年代まではシャノン、ガンダーとも名高い空港であり、その間、カクテル「アイリッシュ・コーヒー」の美味しさは乗客たちによってさまざまな国々に伝わっていく。
1952年にはアメリカのサンフランシスコ、フィッシャーマンズ・ワーフにあるブエナ・ヴィスタ・カフェのメニューに乗る。たちまちにして人気ドリンクとなり、サンフランシスコからもその美味しさが発進されていくこととなった。
現在もシャノン空港はアイルランドの西の玄関であり、空港内にある考案者の名を冠した『ザ・シェリダン・フード・パブ』で発祥の味わいを堪能できる。
材料はアイリッシュウイスキー、砂糖(ザラメ、もしくはコーヒーシュガー)、濃いめのコーヒー、生クリーム。カクテルブックに掲載されている一般的なレシピを紹介しよう。
温めたワイングラスに砂糖を入れ、ホットコーヒーを注ぎ、ウイスキーを加えて優しくステアする。最後に軽くホイップした生クリームをフロートさせる、というものだ。ただし、バーテンダーによってやり方はさまざま。素敵なパフォーマンスを見せてくれるバーは意外と多い。わたしの友だちのバーテンダーのやり方もそのひとつ。
アルコールランプとセットになったウォーマー器具に、ザラメとアイリッシュウイスキーを入れたワイングラスを寝かせるように固定し、火にかける。ほどよいところでグラスをまわし、温まったところでフランベさせると、わずかの間、グラス内から美しい青い炎が浮遊する。
これを目の前でやられると、期待感が増す。これだけでもう、美味しそうな気になる。バーテンダーによってはアルコールを飛ばさない、フランベしない人もいるが、このシンプルな舞台装置だけで胸が躍る。
つづいて濃いめのコーヒーを注ぎ、その上に生クリームを静かにフロートさせてできあがる。
口にするとコーヒーにアイリッシュウイスキーが柔らかく寄り添っているのがわかる。生クリームと口中でなめらかに溶け合うことで身もこころもほぐれていく。飛行艇時代の乗客たちはどれほど温かい心持ちになれたか。コーヒーから女神が微笑んでいるような気がしたであろう。
アイリッシュウイスキーは「タラモアデュー」がいい。3回蒸溜によるライトでスムーズな味わいを特長としながらも繊細でなめらか。スモーキー香はなく、大麦由来の穏やかで心地よい風味があり、やや甘くクリーミーな香りと爽やかなオーク香が感じられる。
このウイスキーは1829年にマイケル・モロイによってアイルランド中部の町の名前で発売された。その後経営者がダニエル・E・ウイリアムスに変わったのを機に、彼の名の頭文字、DEWを添えた。デュー、露。やがてタラモアの露というブランド名は世界に知られるようになった。
「アイリッシュ・コーヒー」を飲みながら、わたしは想像の中で遊ぶ。
コーヒーにタラモアの露。黒茶の世界をデビルが潜むと勘違いした露の妖精たちが女神を誘い込み、生クリ―ムで封じてしまう。そんな妖精物語を勝手につくってみる。最近、バーで真面目な顔で「こんなケルト伝説があってね」とこのつくり話をしたら、みんな信じてしまったので慌てた。ごめんなさい。