「キッス・イン・ザ・ダーク」。接吻のときめきなんて忘れてしまったオジサンにとってはオーダーしづらいカクテル名だ。
ところがこのカクテル、癪に障るほど美味しい。ジンとベルモットという定番マティーニの組み合わせにチェリーリキュールを加えたものだが、ドライな甘味がなんともいえず心地よい。すっきりとしていて、ジンの切れ味のなかにチェリーの風味がそよ風のように漂う。
照れがあり、馴染みのバーテンダーには「マティーニにヒーリング チェリー、ステア」と伝える。すると彼は「サクランボだっちゃ」ですね、とニヤッと笑ってつくってくれる。
当初は、カクテル名を口にしたくないものだから「さくらん坊ちょうだい」と告げていた。これはバーテンダーとの冗談話が高じて、高橋留美子原作の漫画『うる星やつら』でサーフィンを特技として用もないのに登場する、遊行僧チェリー(錯乱坊)の名を借りたものだった。しばらくしてラムちゃんファンだったバーテンダーが勝手に「サクランボだっちゃ」に変えてしまったという訳だ。
「キッス・イン・ザ・ダーク」にとってはいい迷惑だと思う。
「ヒーリング チェリー」はデンマークのコペンハーゲンで1818年に生まれたチェリーリキュール。風味はフレッシュで甘くデリケートな華やかさがあり、ほのかにビター・アーモンドのような香りがある。
あるときバーテンダーが「ヒーリング チェリー」を使った別のカクテルをすすめてくれた。「ハンター」「アルティチュード57」「ボルガ・ボートマン」などで、これらもなかなかのもの。
「ハンター」はカナディアンウイスキーの「カナディアンクラブ」(C.C.)と「ヒーリング チェリー」だけの潔いレシピ。芯がありながらふくよかなウイスキーにチェリーの甘みが見事に溶け込んでいる。
「アルティチュード57」は標高あるいは海抜57ということだが、単位がわからない不思議な名のカクテル。「C.C.」「ヒーリング チェリー」にアプリコットリキュール、レモンジュースが加わり、甘味と酸味の調和で魅了する。
ボルガの船乗りこと「ボルガ・ボートマン」はウオツカ、「ヒーリング チェリー」、オレンジジュースが同量で、よりフルーティーな感覚がある。
これらを飲むと『うる星やつら』の錯乱坊の出る幕はない。変わって狩人、標高、船乗りといったワードが持つイメージから、宮崎駿監督作品『紅の豚』の主人公ポルコ・ロッソが登場する。
やがてチェリーの風味が深く身体に沁みていくと、ひとつの曲が耳の奥底から静かに優しく聴こえてくる。
それは作中でポルコが惚れているマダム・ジーナ(声・加藤登紀子)が歌うシャンソンの名曲『さくらんぼの実る頃』(Le temps des cerises)である。