選評
思想・歴史 2010年受賞
『記号と再帰 ―― 記号論の形式・プログラムの必然』
(東京大学出版会)
東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。
工業技術院電子技術総合研究所、東京大学大学院情報学環講師などを経て、現在、東京大学大学院情報理工学系研究科准教授。
著書: Semiotics of Programming (Cambridge University Press)、Text Entry Systems: Accessibility, Mobility, Universality(共編著、Morgan Kaufmann)など。
訳書: 『ソシュール一般言語学講義』(共訳、東京大学出版会)など。
現代思想は19世紀末の「記号論」の登場によって始まった。それは、記号をモノの標識としてではなく、それ自体が意味を分節化する存在として捉えることによって、モノと記号との古典的な関係を転倒した。
だが、記号論にはソシュールとC.S.パースという二人の創始者がおり、バビロンの混乱にある。ソシュールの記号論は、記号を指し示すもの(シニフィアン)と指し示されるもの(シニフィエ)の結合体とみなす「二元論」であり、パースの記号論は、記号とは指し示すもの(表意体)が解釈項を通して指し示されるもの(対象)に至ることであるという「三元論」になっている。
この混乱からどうしたら抜け出せるのか?本書で田中久美子氏が採用した方法は、「プログラミング言語」という純粋に形式的な記号体系の中で問題を考えてみることである。いや、プログラミング言語では記号の解釈も同じ記号体系の中で行うことになるので、プログラミング言語に考えさせてみると言った方がよいだろう。それによって明らかになるのは、「関数型」と「オブジェクト指向型」というプログラミング言語の二つのパラダイムがそれぞれ二元的と三元的な構造をもっており、しかもその対立にも関わらず、形式的には同値だということである。これから田中氏は、ソシュールの二元論とパースの三元論は、記号の二つの表現形態にすぎず、記号論としては同値であるという仮説を導くのである。
後期のヴィトゲンシュタインが強調したように、記号(言語)の意味とはその「使用」である。実際、ソシュールとパースの対立は、記号の使用を記号モデルの外に置くか内に据えるかの違いに解消される。それは、前者においては記号同士の全体論的な関係を呼び起こし、後者では一つの記号を他の記号で置き換えていく解釈項を作動させることになる。いずれの場合も、モノの標識という意味づけを失った記号は、他の記号との関係の中に投機的に導入され、その使用を通して自らの意味を事後的に確定していくより他はない。それゆえ、記号の意味とは本質的に「投機的」であり、必然的に「再帰」(自己実現)の問題を抱え込むことになる。記号についての考察とは、窮極的に、記号の再帰の困難さについての考察に他ならないのである。
田中氏は本書の結語で、人間は記号の再帰を自然に処理しているのに対し、コンピュータは「再帰が苦手」であり、その発展は再帰をどう扱うかにかかっていると述べている。だが、ここで評者の考えを差し挟むならば、実は、人間も記号の再帰が苦手である。人間とは言語や法や貨幣といった記号を媒介として初めて実世界に関わり、社会関係を築ける存在である。ファシズムやポピュリズム、官僚主義や全体主義、恐慌やハイパーインフレといった人間世界の危機状況は、すべて記号の再帰の困難さの現れである。人間の運命も記号の再帰をどう扱うかにかかっているのである。
Haskell、Java、LGといった言葉やプログラミングの数式が頻出する横書きの本書を、「思想・歴史」の書と見なすべきかについて、選考委員会の中にためらいがあったことは確かである。だが、最終的に、自然言語から切り離されたプログラミング言語に考察を集中することによって、逆に、記号的存在としての「人間」が抱える困難を先鋭的に示した書物として、受賞作に選ばれた。田中氏がこれからも純粋に形式的な考察を深めていくことによって、曖昧さに満ち溢れた人間に関する思想にさらに先鋭的な貢献をしてくれることを願っている。
岩井 克人(国際基督教大学客員教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)