選評
思想・歴史 2009年受賞
『イスラーム世界の論じ方』
(中央公論新社)
1973年生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学(地域文化研究専攻)。
日本貿易振興会アジア経済研究所研究員、国際日本文化研究センター助教授などを経て、現在、東京大学先端科学技術研究センター准教授。
著書:『現代アラブの社会思想』(講談社)、『書物の運命』(文藝春秋)など。
池内恵氏のこの論文集の題名は、『イスラーム世界論』ではなく、『イスラーム世界の論じ方』である。その「まえがき」は、「日本語でイスラーム世界を論じられるのか。そんな疑問を抱きながら、この本に収められた論稿を書いてきた」という言葉からはじまる。それは、イスラーム世界に関してだけでなく、いま国際政治、グローバル社会、現代思想をめぐる有意義で影響力のある言説の大部分が、英語でなされているという現実がある。英語の言説空間の中で発言する人間は、必然的に自分の発言が世界中で聞かれ、検証され、反論される可能性を考慮せざるを得ない。自分の発言に対して責任を負う「当事者」になることを強いられるのである。
だが、日本語でなされる議論は、このような言説空間からまったくといって良いほど切り離されている。「当事者」意識をほとんど共有していないのである。日本から地理的にも歴史的にも遠いイスラーム世界に関してなされる議論は、とりわけこの傾向が強い。本書において池内氏は、日本語での「イスラーム論」は、現地社会の現実にも世界中で闘われている論争にも向き合わず、抑圧されてきた自らの反米感情や西欧コンプレックスを、一方的に「犠牲者」と規定した「イスラーム」に託して解放していく場という役割を担ってきた、と断罪している。
日本において、イスラーム社会の現実と取り組み、イスラーム思想の構造を冷静に分析することは、それゆえ、まさにこの閉塞された日本語の言説空間それ自体を批判していく作業を前提として始めて可能になる。『イスラーム世界の論じ方』を考察することによって、はじめて『イスラーム世界論』が可能になるというわけである。本書の題名は、まさにそのことの表現である。
本書を読み進めながら、私は啓蒙という言葉そのままに、「イスラーム世界」に関する蒙を次々と啓かれていく経験をした。アラブ世界がヒロシマをどう見ているのか。アラブ・メディアの拡大とアラブ諸国の民主化との錯綜した関係。西欧諸国内でのイスラーム教徒統合の困難の中での多文化主義の後退。忌むべき背徳と抗いがたい魅惑をともに備えた女性という、アラブ知識人のアメリカ観。啓示法に基づく宗教領域と世俗法に基づく政治領域とが部分重合した動態的関係としての政教関係。ジハードの目的とは、改宗させることではなく、異教徒による支配権を排除することであり、その背後には、自由な判断の機会があれば当然イスラーム教が選ばれるはずであるという大前提があること、などである。
だが、同時に、日本語の言説空間のひずみを常に意識して書かれた本書は、鋭利な日本社会論にもなっている。優れた異文化論は優れた自文化論でもある、という古今東西の真理が再確認されているのである。
本書の中で、他の論稿とは異質だが私が大変に面白く読んだのは、「周縁の文学」と題された短いエッセイである。『アンデルセン自伝』を、デンマークという周縁の言語文化からヨーロッパの中心の言語文化に向かう人間の物語として読み解く。挫折と虚栄、達成感とともにおとずれる悲哀。それは池内氏も私も含めて、いま世界の中心である英語の言説空間に参入せざるをえない世界中の英語を母語としない人間が経験する普遍的な物語に他ならない。そして、グローバル化の中、そのような人間の数はますます増えていくだろう。
日本の言説空間の中から、このような意味でのグローバル性をもった若き知識人が登場したことを、大いに喜びたい。
岩井 克人(東京大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)