選評
芸術・文学 1990年受賞
『俳句の宇宙』
(花神社)
1954年、熊本県小川町生まれ。
東京大学法学部卒業。
中学時代より句作を行ない、後に、飴山實氏に師事する。俳人。同人誌「夏至」同人。読売新聞社文化部記者。
著作:句集『古志』(牧羊社)など。
選考の席上最初に授賞が決まったのが『俳句の宇宙』だった。歯に衣着せぬ侃諤の議論が闘わされるのが常である学芸賞の委員会としては、すんなり決定にいたった数少ない本の一つだったように思う。 俳句について、これ一冊で多くのことがわかったという実感がある、という意見があった。また、俳人の俳句作りの実感に溢れているという感想もあった。それらの意見は、長谷川氏の本が、俳句という、表面的には何百万かの日本人が日夜親しんでいるにもかかわらず、実際には大きな難題をかかえている短い詩型の問題点を、そもそもの根本にまで立ちかえって洗い出そうとした意図が、強い説得力をもって実現されていること、また氏がそれをなしとげるにあたって、概念的な割り切り方や説明に逃げず、一つ一つ固い岩に穴をあけてゆく実作者の充実した議論、果敢な断言をもってそれを貫き通したことへの賞賛だったと思う。
長谷川氏は30代半ばの俳人である。ということは、俳句の世界ではまだ鼻たれ小僧扱いされても不思議ではない年齢だということである。俳句という短詩型は、入門するのはいとも簡単、しかし一人前になるにはおそろしく歳月がかかる詩型である。一人前を越えて真にすぐれた俳人になるには、それこそ五十年も六十年もかかるとさえ言える。そういう摩訶不思議な世界だからまた、多くの人が魅されて打ち込むのでもあろう。そんなマラソン・ランナーのひしめく中では鼻たれ小僧扱いされても当然な年齢の作者だが、長谷川氏は句の実作の面でも、現在その動向が注目されている数少ない若手俳人の筆頭に位置している人である。『俳句の宇宙』はそういう気鋭の俳人が、自らの拠って立つ俳句というものの現代社会における存在理由を、根本にまでさかのぼって考えようとした貴重な試論である。
なぜ根本にまでさかのぼらねばならないのか。それは明治の子規、大正の虚子、昭和の秋桜子や誓子らによって築かれてきたいわゆる近代俳句の存立基盤に、知らぬ間にいくつもの重大な亀裂が入り、それを再点検しないことには先へ進むことはできないと著者が敏感に察知したからである。 それだけのことなら、少なからぬ俳句作者の中にも同様のことを感じとっている人々はいよう。けれど、長谷川氏のようにこれを本質的に未来の問題として引き受け、芭蕉・蕪村の遺産にまでさかのぼって論じようとした俳人は、久しい以前から現れなかった。
長谷川氏がここで論じている中心問題は、俳句が成り立つ「場」の、恐るべき変質の問題である。それとの関連で、「季語」「切れ」「間」その他俳句固有の問題が、「自然」「造化」「宇宙」「都市」などの大きな枠組みとの関連で論じられている。一歩一歩、踏みしめるような書き方だから、派手な議論ではない。代りにここには、静かに自信をもってこの邦の言葉と文化を究明するため、中央突破の構えを取りつづけていこうと覚悟した頼もしい思索者がいる。
大岡 信(詩人、東京芸術大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)