選評
思想・歴史 1989年受賞
『分散する理性』および『モードの迷宮 ―― 現象学の視線』
(勁草書房/中央公論社)
1949年、京都市生まれ。
京都大学大学院文学研究科博士課程修了(哲学専攻)。
関西大学文学部哲学科助教授などを経て、現在、関西大学文学部教授。この間、アレクサンダー・フォン・フンボルト財団の研究員として、西独ルール大学哲学研究所にて研究に従事。
著書:『ファッションという装置』(河合文化教育研究所)
哲学というものが根本のところで文明批評であり、それぞれの哲学者にとって彼自身の現代文明論であるということは、古今東西を通じて変わらない事実であると言ってよかろう。まさしくヘーゲルが言うように、哲学の課題は現実を概念的に把握することにほかならないのである。そしてこの課題を果すためには、二つの条件が満たされなければならないと考えられる。その一はいわば「不易」のものであり、他は「流行」に関わる。この両者が重要な意味を持つことは、蕉風俳諧においても哲学においても異なるところがない。ところで哲学の場合に前者つまり「不易」の条件とは、哲学の歴史的伝統の中で形成され、しかもそれを受容した哲学者自身の主体的な思索によって新しく彫琢された思考の方法であり、「流行」に関わる条件とは、現実の状況によって触発された哲学者の感性を介して生まれた問題意識である。つまり真に独創的な哲学としての現代文明論は「不易」と「流行」の結合によって生産される。言い換えれば、鋭敏にして新鮮な問題意識によって現実の中から掬みとられた素材を、伝統に依拠しながらもそれに埋没することなく、自らの主体的な思索によって練りあげられた方法論を用いて処理するところにそれは成立する。
今回サントリー学芸賞を受けられることになった鷲田清一氏のほとんど時を同じくして出版された二篇の労作はまさに上記の二つの条件に合致し、両篇を統合することによって卓越した現代文明論を成していると言えよう。すなわち『分散する理性』は「不易」に対応し、『モードの迷宮』は「流行」に相当する。前者において鷲田氏は、久しい研鑽によって自家薬籠中のものとした現象学派の哲学に自らの批判的な思索による練り直しを加えて作りあげた方法論を展開する。それは日常性の思想的な構造(というよりもむしろ脱・構築)の把握であり、経験のダイナミックに依拠したダイコトミー批判であり、間主観性の分析による実体論的思考のアウフヘーベンであり、近代的な理性との対決による新しい知と学問への展望である。ここに述べられたことは、現代において思索するための新しい知の視座と方法の確立として、著者自身にとってばかりでなく、ひろく現代人全体にとって示唆的な意義を持っている。
そしてこの基本的な視角と方法論が『モードの迷宮』では人間にとって最も古くて最も新しく、さまざまな矛盾と逆説と不可解性を含む服飾現象についての考察に適用される。「ディスプロポーション」という脱・構築的な概念を軸としてファッションの分析はきわめて精緻かつ説得的で、ここで鷲田氏の豊かな知性と鋭い感性がみごとに結びついている。この書物は「モードの思想」として珍しく高いレベルに達したものと評価される。
両篇の業績に対してあえて望蜀の言を呈するとすれば、概念的な用語について判り易さに対する配慮が望まれる。
中埜 肇(放送大学教授)評
(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)