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サントリー学芸賞

選評

政治・経済 1988年受賞

大津 定美(おおつ さだよし)

『現代ソ連の労働市場』

(日本評論社)

1938年、北海道美唄市生まれ。
東京外国語大学ロシア科卒業後、京都大学大学院経済学研究科博士課程修了。
龍谷大学経済学部助手を経て、現在、龍谷大学経済学部教授。この間、ソ連邦科学アカデミー経済研究所客員研究員として、モスクワに滞在。

『現代ソ連の労働市場』

 ブレジネフ政権下でソ連経済が長期の停滞に澱むにしたがい、ソ連経済研究は経済理念という視点からいっても、分析的な視点からいっても新鮮な魅力を失ってしまったかのようにみえていた。1970年代から80年代にかけては、非社会主義圏のソ連経済研究界は新世代の育成に、まさに危機的といって良い程に失敗していたのである。
 そのようなソ連経済研究の冬の時代に、大津定美氏は、ブルス、ワイルスといった西欧研究の第一人者やハンガリーのコルナイ、あるいはソ連科学アカデミー経済研究所等の学者たちと交流を保ちながら、着実に独自の研究をつみかさねられてきた。本書は、このほぼ15年内にわたる氏の研究の集大成である。
 ペレストロイカによってソ連経済の停滞にようやくにして雪どけの兆しがみえた今、この書の発刊もソ連経済研究の将来に新しい地平が拓かれるとの希望を抱かせてくれるのである。
 氏の貢献のユニークな点は、ソ連経済分析に「労働市場」という視角を導入したことにある。このような視角は、社会主義における価格メカニズム利用の有効性がオーソドックスとして認められつつある今、時宜を得たものであることはいうまでもない。しかし氏がそうした視座を定めて本書にいたる研究の道を歩みはじめられた当初には、「労働力の商品化」という社会主義者のタブーにふれる問題意識であったことを思いおこす必要がある。そうであるが故に、この見失われた分析視角の有効性を実証するための、資料収集とその解釈には余人には窺い知れない苦労があったものと思われる。本書の主題はタイムリーであるが、単なる通り一辺の観察記やアプリオリな理念の開陳ではなく、原資料にもとづいて、東欧圏の学者でさえも首肯せざるをえない結論を導きだしていくところに、地味ではあるが、貴重な価値がある。
 本書では、ソ連経済の最大の問題点である低い労働生産性は、一つには有効なインセンティブの欠落に起因することがくまなく実証されている。しかし資本主義国でもインセンティブの仕組みは多様である。極端に様式化していえば、アメリカでは標準化された仕事の市場による評価が労働意欲に対する主要なインセンティブとして機能しているのにたいし、日本では企業組織における、長期で多次元にわたった評価が技能形成の主要なインセンティブとして利用されている。おそらくどちらのシステムも絶対的に有利だということはありえず、今世紀における最後の主要な経済問題の一つはさまざまな経済制度の間のインセンティブの仕組みの相互学習にあるだろう。こうしてみた時、大津氏の研究は計画対市場という古い対立図式をこえた、新しい普遍的な問題意識へとつらなっていくことになるであろう。

青木 昌彦(京都大学教授)評

(所属・役職等は受賞時のもの、敬称略)

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